・・・こちらへ近いてくるのを見ると、年の寄った一人の車夫が空俥を挽いている。私は人懐しさにいきなり声を懸けた。 先方は驚いて立留った。「ちょっと伺いますが、ここはいったい何という所でしょう、やっぱり何町の内なんですか。」「なあにお前さ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・一日で嫌気がさしてしまったが、近いうちに記者に昇格させてやると言われたのを当てにして、毎日口惜し涙を出しながら出勤した。一つにはそこをやめてほかに働くところもありそうになかったからだ。 ある日、給仕のくせに生意気だと撲られた。三日経つと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・それには、「勿来関に近いこゝらはもう秋だ」というようなことが書いてあった。それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 彼が何気なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの予感でぎくっとした。そしてそれがまごうかたなく自分の秘かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・この四郎さんは私と仲よしで、近いうちに裏の田んぼで雁をつる約束がしてあったのです、ところがその晩、おッ母アと樋口は某坂の町に買い物があるとて出てゆき、政法の二人は校堂でやる生徒仲間の演説会にゆき、木村は祈祷会にゆき、家に残ったのは、下女代わ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・恋愛よりも、親の愛、腹心の味方の愛、刎頸の友の愛に近いものになる。そして背き去ることのできない、見捨てることのできない深い絆にくくられる。そして一つの墓石に名前をつらねる。「夫婦は二世」という古い言葉はその味わいをいったものであろう。 ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・南の鉄格子の窓に映っている弱い日かげが冬至に近いことを思わせた。彼は、正月の餅米をどうしたものか、と考えた。「どうも話の都合が悪いんじゃ。」やっと帰ってきた杜氏は気の毒そうに云った。「はあ。」「貯金の規約がこういうことになっとる・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 釜和原はこういったところであるから、言うまでも無く物寂びた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前に挙げた川上の二三ヶ村はいうに及ばず、此村から川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので、此村にはいささかながら物を売る肆・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・頂きの近いところに、少し残っている足場が青い澄んだ冬の空に、輪郭をハッキリ見せていた。「君、あれが君たちの懐しの警視庁だぜ。」 と看守がニヤ/\笑って、左側の窓の方を少しあけてくれた。俺ともう一人の同志は一寸顔を見合せた。――警視庁・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋ずつを要求するほど一人前に近い心持ちを抱くようになってみると、何かにつけて今の住居は狭苦しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫