この一、二年何のかのと銀座界隈を通る事が多くなった。知らず知らず自分は銀座近辺の種々なる方面の観察者になっていたのである。 唯不幸にして自分は現代の政治家と交らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼に登る機会がなかったが、し・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・主人は近辺の差配で金も貸しているという。わたしの家をよく知っているから、五円や拾円貸さないことはあるまい。しかし何と言って借りたらいいものだろう。 すると唖々子は暫く黙考していたが、「友達が吉原から馬を引いて来た。友達がかわいそうだから・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ところで近頃僕の家の近辺で野良犬が遠吠をやり出したんだ。……」「犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい。僕には聯想さえ浮ばんが」と津田君はいかに得意の心理学でもこれは説明が出来悪いとちょっと眉を寄せる。余はわざと落ちつき払って御茶を一・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・この時は柿が盛になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらし・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・其内に附添の一人は近辺の貧乏寺へ行て和尚を連れて来る。やっと棺桶を埋めたが墓印もないので手頃の石を一つ据えてしまうと、和尚は暫しの間廻(向して呉れた。其辺には野生の小さい草花が沢山咲いていて、向うの方には曼珠沙華も真赤になっているのが見える・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 浪ぎはへ蔦はひ下りる十余丈 根府川近辺は蜜柑の名所なり。 皮剥けば青けむり立つ蜜柑かな 石橋山の麓を過ぐ頼朝の隠れし処もかなたの山にありと人のいえど日已に傾むきかかれば得行かず。ただ 木のうろに隠れうせけり・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・きっと乞食が取ったか、この近辺の子が持って往たのだろう。これだから日本は困るというのだ。社会の公徳というものが少しも行われて居らぬ。西洋の話を聞くと公園の真中に草花がつくってある。それには垣も囲いもなんにもない。多くの人はその傍を散歩して居・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ところが東京の近辺ではこれを採るものが極めて少ないためでもあるか、赤羽の土手には十間ほどの間にとても採り尽せないほどの土筆が林立して居ったそうな。妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷に溢れるほどの土筆は、わが目の前に出し広・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・名高い狒々のいた近辺に、母と子との猿を一しょに入れてある檻があって、その前には例の輪切にした薩摩芋が置いてある。見物がその芋を竿の尖に突き刺して檻の格子の前に出すと、猿の母と子との間に悲しい争奪が始まる。芋が来れば、母の乳房を銜んでいた子猿・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・その蕾はいっこう動かないが、近辺で何か音がする。蓮の花の開く時の音はポンという言葉で形容されているが、どうもそれとは似寄りのない、クイというふうな鋭い音である。何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫