・・・わたくしは言問橋や吾妻橋を渡るたびたび眉を顰め鼻を掩いながらも、むかしの追想を喜ぶあまり欄干に身を倚せて濁った水の流を眺めなければならない。水の流ほど見ているものに言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない。薄く曇った風のない秋の日の夕暮近くは・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・当時隅田川上流の蒹葭と楊柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、並せてまたアンリ・ド・レニエーが抒情詩を追想せしめる便りとなったからである。今日文壇の士に向って仏蘭西の風光とその詩篇とを説くのは徒に遼豕の嗤を招ぐに過ぎないであろう。しかし・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ事で、直接の実感でなけりゃ真劒になるわけには行かん。ところが小説を書いたり何かする時にゃ、この直接の実感と・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・ 動物に親しみやすい子供の生活に、これぞと云う楽しい追想も遺して行かなかったことを見ると、白は、当時の私共の生活のように寂しい栄えないものであったと思われる。健康な、子供とふざけて芝生にころがり廻る幸福な飼犬と云うよりは、寧ろ、主人の永・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・有のままをいえば、遠く過ぎ去った小学校時代を屡々追想して、その愛らしい思い出に耽るには、今の自分は、一方からいえば余り大人になり過ぎ、一方からいえば、又、余りに若過ぎる時代にある。丁度、女学校の二三年頃、理由もなく幼年時代をいつくしむような・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・の苦しさから、意識を飛躍させようとして、たとえばある作家の作品に描かれているように、バリ島で行われている原始的な性の祭典の思い出や南方の夜のなかに浮きあがっている性器崇拝の彫刻におおわれた寺院の建物の追想にのがれても、結局、そこには、主人公・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・ 一平氏が妻であり芸術家であったかの子さんへの追想として書かれた文をよんでも、そういう私の分らなさは、わかったものとならなかった。 それにしても、このわからなさは何なのだろう。私だけの心持で、その一筋を追いつめてゆくと、悲しさに通ず・・・ 宮本百合子 「作品の血脈」
・・・ あの時分――女学校の四五年の頃を追想すると、斯うやって夏の田舎の屋根裏の小部屋で机に向っていても、種々な情景が如実に浮み上り、微笑を禁じ得ない心持になる。 私が一番初め千葉先生を教壇に見たのは、四年の西洋歴史の時からであった。・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
・・・ 同志小林多喜二が、日本においてたぐいまれな国際的規模をもつ共産主義作家であったこと、同志小林が常に全力的であり、前進的であり、創作のために寸暇を惜んで刻苦したことは、彼に関する最も断片的な追想の中にさえ読まれた。 貧農の息子、搾取・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価に寄せて」
・・・ 其の薫わしい、若々しい追想は、少なからず彼の心を柔らげた。「ああ、俺は運が好かったのだ。 さっきまで、彼の様に自分に深い恵みを垂れて居た神様は、此れから先も、決して自分には辛くばかりは御あたりなさるまいと云う事を、段々・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
出典:青空文庫