私の処女作――と言えば先ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。 というのが、もともと私には何をしなければならぬということがな・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・『新俳句』に僕があの男を追懐して、思ひ出すは古白と申す春の人という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、故家にいたり、あちらこちらに宿・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・この空想とは、例の賊に追われたことを後から追懐する奴なんだ。そうすると小説は第二義のもので、第一義のものじゃなくなって来る。否、小説ばかりじゃない、一体の人生観という奴が私にゃ然う思えるんだよ……思えると云うと語弊があるが、那様気がするのだ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・それかといって、多くの女性が、自分の娘の幼い通学姿を眺めて、我知らず追懐に胸をそそられるだろうような場合は、未だ自分にとっては未知の世界に属する。若しかすると、折々記憶の裡に浮み上るその頃の自分が、我ながら無条件に可愛ゆいとは云いかねるよう・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・激しい彼への思慕を持ちながら、それを語ることによりそれを追懐することによって恢復しつつ新らしい生活を歩み出します。 友達が出来ましょう、話し相手なしでは――彼のことを話す相手なしでは――いられません。そして、最も自然な、在り得べき想像と・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・ともいつものように面白くないし、まるで全体が別ものなのさ。どうしたんだろうと思ってひどく不思議だったけど、今考えて見れば、おっかさんが、子供に分るようにうまくこしらえてよんでいてくれたんだねえ。と追懐をもって語ったことがあった。 私たち・・・ 宮本百合子 「子供のために書く母たち」
・・・の中で、ゴーリキイは自制した悲しみをもってこの頃を追懐している。「彼等の中の誰も私のところに、仕事場に来てくれるものはなく、私は一昼夜十四時間も仕事をしているので、普通の日にはデレンコフの所へ行くことが出来なかった。休みの日には或は眠り、或・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・母は自分の父を追懐することの多くなった晩年に於て、祖父が果した文化的な役割の、そういう新しかった面の高い価値を評価することを知らず、ただ祖父の位階勲等や、祖父の発意でたてられたある修養団体で読み上げられる「創祖西村茂樹先生」の面でだけ評価を・・・ 宮本百合子 「わが母をおもう」
・・・ゴーリキイは後年自分のその時代の作品及び創作の態度を追懐して、「あの時分、私はこの堪えがたい人生の苦痛について、せめてそれを輝かしい調子でもの語ろうとした。私は愚痴をいうのがきらいだった」という意味のことをいっている。当時にあってゴ・・・ 宮本百合子 「私の会ったゴーリキイ」
一 夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。 昨日私は先生に・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫