・・・「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」「さようでございます。手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」「我々は、よくよく運のよいものと見えますな。」 二人は、満足そ・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着はしていなかった。彼女は座席につくと面を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。―― 十日ばかり前である。 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・身を傾けるほどの思いはかえって口にも出さず、そんな埒もなき事をいうて時間を送る、恋はどこまでももどかしく心に任せぬものである。三人はここで握り飯の弁当を開いた。 十「のろい足だなあ」と二、三度省作から小言が出て、午・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
一 僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった。友人の紹介で、ある寺の一室を借りるつもりであったのだが、たずねて行って見ると、いろいろ取り込みのことがあって、この夏は客の世話が出来ないと言うので、またその住持・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・生憎留守で会わなかったので、手紙を送ると直ぐ遣したのが次の手紙で、それぎり往復は絶えてしまった。緑雨の手紙は大抵散逸したが、不思議にこの一本だけが残ってるから爰に掲げて緑雨を偲ぶたねとしよう。言文一致ニカギル、コウ思附イタ上ハ、・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そして、山で拾った、くりや、どんぐりを送ると書いてありました。「町が遠いのに、弟さんは、小包を出しにいったんだね。」と、三郎さんはききました。「いえ、町へは、毎日、村から、だれかついでがありますから。」と、ねえやは、答えました。・・・ 小川未明 「おかめどんぐり」
・・・いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて、手代や小僧がジロジロ訝しそうに見送る冷たい衆目の中を、私は赤い顔をして出た。もう一軒頼んでみたが、やっぱり同じことであった。いったいこ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・という甘い文句の見出しで、店舗の家賃、電灯・水道代は本舗より支弁し、薬は委託でいくらでも送る。しかも、すべて卓効疑いのない請合薬で、卸値は四掛けゆえ十円売って六円の儲けがある。なお、売れても売れなくても、必ず四十円の固定給は支給する云々の条・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・Yの父が死んだ時、友人同士が各自に一円ずつの香奠を送るというのも面倒だから、連名にして送ろうではないかという相談になってその時Kが「小田も入れといてやろうじゃないか、斯ういう場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云って、彼の名をも書き加え・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫