・・・私はその人を命の恩人と思い、今は行方は判らぬが、もしめぐり会うことがあれば、この貯金通帳をそっくり上げようと名義も秋山にして、毎月十日に一円ずつ入れることにしたのです。十日にしたのはあの中之島公園の夜が八月十日だったのと、私の名が十吉だった・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・銀行へ預ける身分になりたいとは女房の生涯の願いだったが、遂に銀行の通帳も見ずに死んでしまったよ」「ふーん」 私は半信半疑だったが、「――二千円で何を買ったんだ」「煙草だ」「見たところよく吸うようだが、日に何本吸うんだ」・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団の下に隠したので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩んで、蒼くなっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・小使が局へ持って行った貯金通帳は、一円という預入金額を記入せずに拡げられてあった。彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と、杜氏は主人が保管している謄写版刷りの通帳を与助の前につき出した。その規約によると、誠心誠意主人のために働いた者には、解雇又は退隠の際、或は不時の不幸、特に必要な場合に限り元利金を返還するが、若し不正、不穏の行為其他により解雇する時には、・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・貯金通帳と、払戻し用紙それから、ハンコと、三つを示され、そうして、「書いてくれや」と言われたら、あとは何も聞かずともわかる。「いくら?」「四拾円。」 私はその払戻し用紙に四拾円也としたため、それから通帳の番号、住所、氏名を書き記・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に弐百円とか参百円とかのハンコを押すたんびに、なんだか胸がどきどきして顔があからむのです。 そうして次第に私は苦しくなりました。花江さんは決して凄腕なんかじゃないんだけれ・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ わたしがこの質屋の顧客となった来歴は家へ出入する車屋の女房に頼んで内所でその通帳を貸してもらったからで。それから唖々子と島田とがつづいて暖簾をくぐるようになったのである。 もうそろそろ夜風の寒くなりかけた頃の晦日であったが、日が暮・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・奥さんは手元にあるだけの株券、公債、銀行通帳、宝石の入った装身具類などを悉く簀子の処へ持ち出し、「これだけ財産があるんですから、本当に、御迷惑はかけませんよ、――だからどうぞ今日から親類になって下さい、……ね、私達そりゃあ淋しく暮してい・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫