・・・父親が金をこしらえあげた暁にこの児の運命はどうなるだろうかと話し合った事もある。 ジュセッポの家で時ならぬ嵐が起って隣家の耳をそばだてさせる事も珍しくない。アクセントのおかしいイタリア人の声が次第に高くなる。そんな時は細君のことをアナタ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・そして母の生家を継ぐのが適当と認められていた私は、どうかすると、兄の後を継ぐべき運命をもっているような暗示を、兄から与えられていた。もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思っていた。私の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・―― 高島が鹿児島へ発った翌日の夕方、三吉は例のように熊本城の石垣にそうて、坂をくだってきて、鉄の門のむこうの時計台をみあげてから、木橋のうえをゆきかえりしながら、運命みたいなものを感じていた。――若し彼女がうけいれてくれるならば、竹び・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 祖国の自然がその国に生れた人たちから飽かれるようになるのも、これを要するに、運命の為すところだと見ねばなるまい。わたくしは何物にも命数があると思っている。植物の中で最も樹齢の長いものと思われている松柏さえ時が来ればおのずと枯死して行く・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ だが、何でもかでも、私は遂々女から、十言許り聞くような運命になった。 四 先刻私を案内して来た男が入口の処へ静に、影のように現れた。そして手真似で、もう時間だぜ、と云った。 私は慌てた。男が私の話を聞くことの・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・で、社会主義ということは、実社会に対する態度をいうのだが、同時にまた、一方において、人生に対する態度、乃至は人間の運命とか何とか彼とかいう哲学的趣味も起って来た。が、最初の頃は純粋に哲学的では無かった……寧ろ文明批評とでもいうようなもので、・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・それに受身になって運命に左右せられていないで、何か閲歴がしてみたいと云う女の気質の反抗が見えている。要するにどの女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫