・・・又実際、過去の記憶に照して見ても、そうでなかった事は一度もない。唯、この弟たるべき自分が、時々向うの好意にもたれかゝって、あるまじき勝手な熱を吹く事もあるが、それさえ自分に云わせると、兄貴らしい気がすればこそである。 この兄貴らしい心も・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・彼れはじっとその戯れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡ての事が他人事のように順序よく手に取るように記憶に甦った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり切れてしまった。彼れはそ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・その墓地の図面と、過去帳は、和尚が大切にしているが、あいにく留守。…… 墓参のよしを聴いて爺さんが言ったのである。「ほか寺の仏事の手伝いやら托鉢やらで、こちとら同様、細い煙を立てていなさるでなす。」 あいにく留守だが、そこは雲水・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・限りなき嬉しさの胸に溢れると等しく、過去の悲惨と烈しき対照を起こし、悲喜の感情相混交して激越をきわむれば、だれでも泣くよりほかはなかろう。 相思の情を遂げたとか恋の満足を得たとかいう意味の恋はそもそも恋の浅薄なるものである。恋の悲しみを・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・然るに文学上の労力がイツマデも過去に於ける同様の事情でイクラ骨を折っても米塩を齎らす事が無かったなら、『我は米塩の為め書かず』という覚悟が無意味となって、或は一生涯文学に志ざしながら到頭文学の為め尽す事が出来ずに終るかも知れぬ。 過去に・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・丁度死んでしまったものが、もう用がなくなったので、これまで骨を折って覚えた言語その外の一切の物を忘れてしまうように、女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。 女房は市へ護送せられて予審に掛かった。そこで未決檻に入れられてから、女房は・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 幾千年の過去に於てそうであった。恐らくまた、永久の未来に於て、変りのないことであろう。 思うに、我等の芸術は、そこから生れた。又、我等の社会運動は、そこから生れたのである。そこには、幾何、流浪の旅に上った芸術家があったか知れない。・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・われわれが過去の日本の文学から受けた教養は、過不足なき描写とは小林秀雄のいわゆる「見ようとしないで見ている眼」の秩序であると、われわれに教える。「見ようとしないで見ている眼」が「即かず離れず」の手で書いたものが、過不足なき描写だと、教える。・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・それが彼の醜悪と屈辱の過去の記憶を、浄化するであろうと、彼は信じたのであった。彼は自分のことを、「空想と現実との惨ましき戦いをたたかう勇士ではあるまいか」と、思ったりした。そして今や現実の世界を遠く脚下に征服して、おもむろに宇宙人生の大理法・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫