・・・それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、反駁して置きたいような気が起るのであった。 マダムはくすくす笑いながら答えた。「ええ。華族さんになって、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・女性の皮膚感触の過敏が、氾濫して収拾できぬ触覚が、このような二、三の事実からでも、はっきりと例証できるのである。或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・しかしそのような著しい地殻の古きずが現在の歪に対して時々過敏になりうるであろうと想像するのは単に無稽な空想とは言われないであろう。 それで問題の怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・そして脳が過敏になっているためか、不断はまるで忘れていたような事まで思い出して来る。自分は子供の時から絵が好きで、美しい絵を見れば欲しい、美しい物を見れば画いてみたい、新聞雑誌の挿画でも何でも彩色してみたい。彩色と云っても絵具は雌黄に藍墨に・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・彼の過敏になった想像はもうそれが立派に生育して花をつけたさまを描いていた。某画伯のこの花を写生した気持ちのいい絵の事をも思い出したりしていた。 再び通りかかった細君に「オイわかったよ、フリージアだよ、これは……」と言って説明しようとした・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催したくらいであるから、その時もやはり試験の刺激の圧迫ですでに脳貧血を起こしかけていたために、少しの異臭が病的に異常に強烈な反応を促進した・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ことに文句に絶えず頭を使いながらせき込んで印字機の鍵盤をあさる時、ひき慣れないむつかしい楽曲をものにしようとして努力する時、そういう時には病的に過敏になった私の胃はすぐになんらかの形式で不平を申し出した。しかしこれは手や指を使うというよりも・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・理性にも同情にも訴うるのでなく、唯過敏なる感覚をのみ基礎として近世の極端なる芸術を鑑賞し得ない人は、彼からいえば到底縁なき衆生であるのだ。女の嫌いな人に強て女の美を説き教える必要はない。酒に害あるはいわずと知れた話である。然もその害毒を恐れ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・の顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切の安売・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼の神経は過敏になって居た。「おっつあん」と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたごろりとなった。「おっつあん縛ったぞ」 三次の声で呶鳴った。「いいから此れ引っこ抜くべ」という低い声が続いて聞えた。「おっつあん此のタ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫