・・・「俺を病人と思うのが、そもそも間違いだぞや」「なにしろ、あなたのところの養子もあの通りの働き手でしょう。あの養子を助けて、家の手伝いでもして、時には姉さんの好きな花でも植えて、余生を送るという気には成れないものですかなあ」「熊吉・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・みんなで少しずつ出し合ってくれたら、汽車賃が出来るに違いない。」 一群は丁度爪先上がりになっていた道を登って、丘の上に立ち留まった。そして目の下に見える低い地面を見下した。そこには軌道が二筋ずつ四つか五つか並べて敷いてある。丁度そこへ町・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。「さ、これをあげましょう」と下締を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。「そん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・こんな風にせられていた日には、いつかはわたしというものが無くなって、黒い糞と林檎の皮とだけが跡に残るに違いないわ。今そう思って見れば、最初からわたしはお前さんの傍を遠ざかりたいと思っていたのだわ。そしてどうしても遠ざかることが出来なかったの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 彼は、スバーの涙に特別な注意を払い、彼女が優しい心を持っているに違いないと思いました。今日、両親と別れるのが辛くて歎いている心は、やがて、自分の為になる財産の一つとなるだろうと考えたので、彼は、それをも、スバーに対する信用の一つに加え・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・佐吉さんだって、それを知って居るに違いないのに、何だってあんな嘘の自慢をしたのでしょう。三島には、有名な三島大社があります。年に一度のお祭は、次第に近づいて参りました。佐吉さんの店先に集って来る若者達も、それぞれお祭の役員であって、様々の計・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
ウィインで頗る勢力のある一大銀行に、先ずいてもいなくても差支のない小役人があった。名をチルナウエルと云う小男である。いてもいなくても好いにしても、兎に角あの大銀行の役をしているだけでも名誉には違いない。 この都に大勢いる銀行員と云・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・苦しいには違いないが、さらに大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少なくともその苦痛を軽くした。一種の力は波のように全身に漲った。 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打ち克とうという念の方が強烈であった。一方にはきわめて消極的な・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それでせいぜい科学の準備くらいのところまでこの考えを持って行くのは見当違いである。むしろ反対に私は学校で教える理科は今日やっているよりずっと実用的に出来ると思う。今のはあまりに非実際的過ぎる。例えば数学の教え方でも、もっと実用的興味のあるよ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・「ふみ江ちゃんが琴やお花のお稽古で、すましているものですから、先でも買い被っていたに違いないんです。東京へ言ってやりさえすれば、金はいくらでも出るようなことも言っていたようです。こっちには松山の伯父さんもいられるし、これもうんと力瘤を入・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫