・・・僕等は風の運んで来る彼等の笑い声を聞きながら、しばらくまた渚から遠ざかる彼等の姿を眺めていた。「感心に中々勇敢だな。」「まだ背は立っている。」「もう――いや、まだ立っているな。」 彼等はとうに手をつながず、別々に沖へ進んでい・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当になりそうで、実ははなはだ当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているで・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 保吉は次第に遠ざかる彼等の声を憎み憎み、いつかまた彼の足もとへ下りた無数の鳩にも目をやらずに、永い間啜り泣きをやめなかった。 保吉は爾来この「お母さん」を全然川島の発明したうそとばかり信じていた。ところがちょうど三年以前、上海へ上・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ溺死するのに定まっていた。のみならず鱶はこの海にも決して少いとは言われなかった。…… 若い楽手の戦死に対するK中尉の心もちはこの海戦の前の出来事の記憶と対・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・それやこれやのことが薄々二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。 人間の心持というものは不思議なもの。二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱ぎ込んで、まるで・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・かつ淡島屋の身代は先代が作ったので、椿岳は天下の伊藤八兵衛の幕僚であっても、身代を作るよりは減らす方が上手で、養家の身代を少しも伸ばさなかったから、こういう破目となると自然淡島屋を遠ざかるのが当然であって、維新後は互に往来していても家族的関・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 緑雨の全盛期は『国会新聞』時代で、それから次第に不如意となり、わざわざ世に背き人に逆らうを売物としたので益々世間から遠ざかるようになった。元来緑雨の皮肉には憎気がなくて愛嬌があった。緑雨に冷笑されて緑雨を憎む気には決してなれなかった。・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・なるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠ざかるものであると考えていた。小説には・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・彼は二人から遠ざかるように少し斜めに歩いた。相手は彼を知らないで通り過ぎた。ちょっと行ってから彼は振りかえってみた。二人は肩を並べて歩いてゆく。やってやがると思った。が振りかえった自分に赤くなった。 図書館は公園の中にあった。龍介は歩き・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・そしてどうしても遠ざかることが出来なかったのだわ。なんでもお前さんはその黒い目で、蛇が人を睨めるようにわたしを見ていて、わたしを化してしまったのだわ。今思って見ればわたしはお前さんにじりじり引き寄せられていたのだわ。両足を括って水に漬られて・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫