・・・ 御存じの方は、武生と言えば、ああ、水のきれいな処かと言われます――この水が鐘を鍛えるのに適するそうで、釜、鍋、庖丁、一切の名産――その昔は、聞えた刀鍛冶も住みました。今も鍛冶屋が軒を並べて、その中に、柳とともに目立つのは旅館であります・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向けて唄うので、頸を抽いた転軫に掛る手つきは、鬼が角を弾くと言わば厳めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。――なから舞いたりしに、御輿の岳、愛宕山・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と、握拳を鼻の上にぞ重たる、乞食僧の人物や、これを痴と言むよりはたまた狂と言むより、もっとも魔たるに適するなり。もししからずば少なくとも魔法使に適するなり。 かかりし後法師の鼻は甚だ威勢あるものとなりて、暗裡人をして恐れしめ、自然黒壁を・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・この問題が定まれば乃ちその目的を達するに最も近い最も適する文章が自ずから将来の文体となるのである――」という趣旨であった。 この答には私は意外の感に打たれた。当時私はスペンサーの文体論を初め二、三の著名な文章説を読んでいたが、こういう意・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 下宿を捜すにも実際にかような仕方で、要求の条件に適するものを、数多くの中から選んだわけである。 同一人にとっても、問いの所在ならびに解決方途の異なるにしたがって、かような指導書もまた推移していく。私にとってはそれはカルル・ヒルティ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・「既に金沢の方で、学校の図書室を預って、多少その方の経験もあるが、何となく僕の趣味に適するんだね――あの議院に附属した大な図書館でもあると、一つ行って見たいと思うんだが――」 原は口髭を捻りながら笑った。 茶店の片隅には四五人の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ このようにいろいろな味のちがったものを多数に全編の中に取り入れて、趣味のちがった多数の観客の享楽に適するようにしようとすれば、どうしても多少の無理が起こりやすい。それをこのくらいにまでまとめ上げるのはやはり凡手ではできないであろう。そ・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・ 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・実際千島カラフトの果てから台湾の果てまで数えれば、気候でもまず文化民の生活に適する限り一通りはそろっている。こういう珍しい千代紙式に多様な模様を染め付けられた国の首都としての東京市街であってみれば、おもちゃ箱やごみ箱を引っくり返したような乱・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・柱作りに適するローヤル・スカーレットという薔薇がある。濃紅色の花を群生させるが、少しはなれた所から見ると臙脂色の団塊の周囲に紫色の雰囲気のようなものが揺曳しかげろうているように見える。 人間の色彩といったようなものにもやはりこうした二種・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
出典:青空文庫