・・・ 洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後に佇みながら、大通りを通る人や車に、苛立たしい視線を配り始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋ばかり並んだ横町には、人力車一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車の札を出した・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ そう思うと共に陳彩は、獲物を見つけた猟犬のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色も見えないのは、いつの間にか元の通り、錠が下りてしまった・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・白は犬殺しに目を配りながら、じりじり後すざりを始めました。そうしてまた生垣の蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀そうな黒を残したまま、一目散に逃げ出しました。 その途端に罠が飛んだのでしょう。続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ 三一 答案 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙を配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にし・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・が、二人の間に腰を据えて、大きく蛇の目をかざしていた泰さんは、左右へ当惑そうな眼を配りながら、それでも声だけは元気よく、「おい、しっかりしなくっちゃいけないぜ。お敏さんも勇気を出すんです。得てこう云う時には死神が、とっ着きたがるものですから・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗についで配り、座についてその話を聞こうとしている。「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤よ、あ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・香の物がまずいと、お粥も食べすぎないだろうという心の配り方です。しかし、これはその家だけの習慣ではなく、あとであちこち奉公してみて判ったのだが、これは船場一体のしきたりだったようです。 一事が万事、丁稚奉公は義理にも辛くないとは言えなか・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・草三銭、風呂銭三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・三吉はまた大悦びで、おばあさんが手製のふかしたてのパンを患者仲間の居る部屋々々へ配りに行くこともあった。 おげんが過ぎ去った年月のことをしみじみ胸に浮べることの出来たのも、この静かな医院に移ってからであった。部屋に居て聞くと、よく蛙が鳴・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫