・・・この温泉場は、泊からわずか四五里の違いで、雪が二三尺も深いのでありまして、冬向は一切浴客はありませんで、野猪、狼、猿の類、鷺の進、雁九郎などと云う珍客に明け渡して、旅籠屋は泊の町へ引上げるくらい。賑いますのは花の時分、盛夏三伏の頃、唯今はも・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ それはとにかく、この「山火事と野猪」の詩や、「たぬきの舞踊」の詩には現代の若い都人士などには想像することさえ困難であろうと思われるような古い古い「民族的記憶」といったようなものが含まれているような気がする。それは万葉集などよりはもっと・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 南向いている豚の尻を鞭でたたけば南へ駆け出し、北向いている野猪をひっぱたけば北へ向いて突進する。同じ鋳掛屋がもしも一風呂浴びてここを通りかかったのだったら、同じ絃歌の音は却って彼の唱歌を誘い出したかもしれない。こう考えると日本のある種・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・ 頻繁で噪々しい笑いの持ち主、その頃流行の優雅な身のこなしとはまるで逆にずんぐり太ってさながら「愉快な野猪」めいた農民出のバルザックが、仰々しい貴族まがいの身なりに伊達者ぶって、例のトルコ玉を鏤めた杖をつきつつ、ダブランテス公夫人やカス・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・額際から顱頂へ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後へ向けて掻き上げたのが、日本画にかく野猪の毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻に、嘲笑的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧に似た、深い皺を寄・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・倅の方は利かねえ気の奴だったから、野猪狩に持って行く鉄砲を打ち掛けた。そうすると奴共慌てて逃げてしまやぁがった。」「そのうちに世間が段々静かになって来た。己は毎日毎日土蔵の脇で日なたぼっこをしていた。頭の上の処には、大根が注連縄のように・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫