・・・都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 秋草の乱れた、野原にまで、女ちょうは一気に飛んでくると気がゆるんで、一本の野菊の花にとまって休みました。 このうす紫色の、花の放つ高い香気は、なんとなく彼女の心を悲しませずにいませんでした。「冬を前にして、なんと私たちは、悪い・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・空は底を返したるごとく澄み渡りて、峰の白雲も行くにところなく、尾上に残る高嶺の雪はわけて鮮やかに、堆藍前にあり、凝黛後にあり、打ち靡きたる尾花野菊女郎花の間を行けば、石はようやく繁く松はいよいよ風情よく、えんようたる湖の影はたちまち目を迎え・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ しゅうど 美わしき菫の種と、やさしき野菊の種と、この二つの一つを石多く水少なく風勁く土焦げたる地にまき、その一つを春風ふき霞たなびき若水流れ鳥啼き蒼空のはて地に垂るる野にまきぬ。一つは枯れて土となり、一つは若葉・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれている。萱原の一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわをかぎっていて、そこへ爪先あがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる秩父の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走って・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震えていた。 このまま溶けてしまいたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持って石の段々をひとつ、ひとつ、のぼって部屋へかえるのだ。宿は、かなり大きかった。まっ暗・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・どうかするとこの影が小川へ飛込んで見えなくなったと思うと、不意に向うの岸の野菊の中から頭を出す。出すかと思うと一飛びに土堤を飛越えてまた芒の上をチラリ/\して行く。なお面白いのは日が高くなるにつれて椎茸が次第に縮んで、おしまいにはもう椎茸と・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・ 野菊が独り乱れている。「精ドーダ面白いか。」「あつい」と云いつつ藁帽をぬいで筒袖で額を撫でた。「サーそろそろ行きましょう。モット下へ行って見ましょ。」小津神社の裏から藪ふちを通って下へ下へと行く。ところどころ籾殻を箕であおっている。鶏・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・ 夕闇の底に、かえってくっきりとみえる野菊の一とむらがあるところで、彼女はしゃがんでそれをつみとりながら、顔をあおのけていった。「――青井は未来の代議士だって、妾も、信じますわ」 こいつ、ぱっぱ女学生だ――野菊の花をまさぐりなが・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということだけは知ることができた。 真間川はむかしの書物には継川と・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫