・・・あれは、お手本のあねさまの絵の上に、薄い紙を載せ、震えながら鉛筆で透き写しをしているような、全く滑稽な幼い遊戯であります。一つとして見るべきものがありません。雰囲気の醸成を企図する事は、やはり自涜であります。〈チエホフ的に〉などと少しでも意・・・ 太宰治 「芸術ぎらい」
・・・ 勇吉は絶えずこう思って、例の鉛筆で計算をやって見たりした。 正月が来た。注連飾などが見事に出来て賑やかな笑声が其処此処からきこえて来た。 しかし勇吉はじっとしてはいられなかった。正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがし・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・遠い恒星の光が太陽の近くを通過する際に、それが重力の場の影響のために極めてわずか曲るだろうという、誰も思いもかけなかった事実を、彼の理論の必然の結果として鉛筆のさきで割り出し、それを予言した。それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果から・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉って真中からどぶんと飛込んじゃった。残念でならんがだ。」爺さんは調子に乗って来ると、時々お国訛りが出た。「そこへ上官が二人通りあわせて、乗棄ててある馬を・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・机の上に何だか面白そうな本を広げて右の頁の上に鉛筆で註が入れてある。こんな閑があるかと思うと羨ましくもあり、忌々しくもあり、同時に吾身が恨めしくなる。「君は不相変勉強で結構だ、その読みかけてある本は何かね。ノートなどを入れてだいぶ叮嚀に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・―― 吉田は、紙切れに鉛筆で走り書きをして、母に渡した。「これを依田君に渡して下さい。私はちょっと行って来ますから。心配しないで下さいね。大丈夫だから」 老母の眼からは、涙が落ちた。 吉田は胸が痛かった。おそろしい悲しみ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 画かきは、赤いしゃっぽもゆらゆら燃えて見え、まっすぐに立って手帳をもち鉛筆をなめました。「さあ、早くはじめるんだ。早いのは点がいいよ。」 そこで小さな柏の木が、一本ひょいっと環のなかから飛びだして大王に礼をしました。 月の・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・ 手帖にうつしているとY、赤鉛筆をこねて切抜の整理しながら、 ――何ゴソゴソしているのさ。 ――知ってる? あなた。牛乳生産組合がどんな風に農民から牛乳を集めるか。 СССРで集団農業に移ろうとした時、農民及政府双方で一・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。 ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミッ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 暫くして吉は、その丸太を三、四寸も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。 次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。 ひと月もたつと四月が来て・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫