・・・同時に又突然向うのボオトのぐいと後ずさりをする錯覚を感じた。「あの女」は円い風景の中にちょっと顔を横にしたまま、誰かの話を聞いていると見え、時々微笑を洩らしていた。顋の四角い彼女の顔は唯目の大きいと言う以外に格別美しいとは思われなかった。が・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・それはこの頃の僕に多い錯覚かと思った為だった。が、実際鈴の音はどこかにしているのに違いなかった。僕はもう一度O君にも聞えるかどうか尋ねようとした。すると二三歩遅れていた妻は笑い声に僕等へ話しかけた。「あたしの木履の鈴が鳴るでしょう。――・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・たね子は夫にこう言われない前にも彼女の錯覚に気づいていた。しかし気づいていればいるだけますます彼女の神経にこだわらない訣には行かなかった。 彼等はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角隠しをかけた花嫁にも時々目を・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・眼科の医者はこの錯覚の為に度々僕に節煙を命じた。しかしこう云う歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかった。僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかった。しかし右の目の・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告――私は隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったような錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたよう・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・る私は、いもりの黒焼の効能なぞには自然疑いをもつのであるが、けれども仲の悪い夫婦のような場合は、効能が現われるという信念なり期待なりを持っていると、つい相手の何でもない素振りが自分に惚れ出した証拠だと錯覚して、そのため自分の方でそれにひきつ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持っているところから起る一種の錯覚だと快く信じているのであるが、見えない水音の醸し出す魅惑はそれにどこか似通っていた。 すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のようなは・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ そうした、錯覚に似た彼らを眠るまえ枕の上から眺めていると、私の胸へはいつも廓寥とした深夜の気配が沁みて来た。冬ざれた溪間の旅館は私のほかに宿泊人のない夜がある。そんな部屋はみな電燈が消されている。そして夜が更けるにしたがってなんとなく・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行っ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ そうしてそれを或る人に手渡す時にも、竹内トキさんの保険金でウィスキイを買うような、へんな錯覚を私は感じた。 数日後、ウィスキイは私の部屋の押入れに運び込まれ、私は女房に向って、「このウィスキイにはね、二十六歳の処女のいのちが溶・・・ 太宰治 「親という二字」
出典:青空文庫