・・・ 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。 信子の着物が物干竿にかかったま・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 夜食が済むと座敷を取り片付けるので母屋の方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火も点けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚り・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 五 二十八の夏でございました、そのころはやや運が向いて参りまして、鉄道局の雇いとなり月給十八円貰っていましたが女には懲りていますから女房も持たず、婆さんも雇わず、一人で六畳と三畳の長屋を借りまして自炊しながら局に通ってお・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・細長い、長屋のように積重ねられて行く薪は、背丈けほどの高さになった。宗保は、後藤と西山とが下から両手で差上げる薪束を、その上から受け取った。彼が歩くと薪の塚は崩れそうにゆさ/\と揺れた。「ちょっと手伝えよ、そんなに日向ぼっこばかりしとら・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
一 くすれたような鉱山の長屋が、C川の両側に、細長く、幾すじも這っている。 製煉所の銅煙は、禿げ山の山腹の太短かい二本の煙突から低く街に這いおりて、靄のように長屋を襲った。いがらっぽいその煙にあうと、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云っています。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。 どうぞ、お願いします。 この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・げんにあの秋ちゃんなど、大谷さんと知合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も着物も無くしてしまうし、いまはもう長屋の汚い一部屋で乞食みたいな暮しをしているそうだが、じっさい、あの秋ちゃんは、大谷さんと知合った頃には、あさましいく・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・母と共に二間の長屋に住んで。――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書類を交換しました。その内、僅か四五カ月。間もなく、プロバカートル事件が起り、逃げてきて転向し・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・前にはコケラ葺や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎる。右の方に少しばかり空地があって、その真上に向ヶ岡の寄宿舎が聳えて見える。春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・それと、もう一つ、宅の門脇の長屋に住んでいた重兵衛さんの一家との交渉が自分の仮想的自叙伝中におけるかなり重要な位置を占めているようである。 重兵衛さんの家は維新前にはちゃんとした店をもった商人であったらしいが、自分の近づきになった頃はい・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫