・・・ 台町の吾家に着いたのは十時頃であったろう。門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子の隙から女の笑い声が洩れる。ベルを鳴らして沓脱に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をし・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・Oは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。それから三人前後して濡れた石を踏みながら典座寮と書いた懸札の眼につく庫裡から案内を乞うて座敷へ上った。 老師に会うのは約二十年ぶりであ・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ 俚諺にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・似而非文人は曰く、黄金百万緡は門前のくろの糞のごとしと。曙覧は曰くたのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時たのしみは物をかかせて善き価惜みげもなく人のくれし時 曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 平右衛門はひらりと縁側から飛び下りて、はだしで門前の白狐に向って進みます。 みんなもこれに力を得てかさかさしたときの声をあげて景気をつけ、ぞろぞろ随いて行きました。 さて平右衛門もあまりといえばありありとしたその白狐の姿を見て・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 何年もその家はそこに在って、二階の手摺に夜具が乾してあるのが往来から見えたりしていたが、昨年の初めごろ、一つの立札がその門前に立てられた。 梅時分になると、よく新宿駅などに、どこそこの梅と大きい鉢植えの梅の前に立てられている、ああ・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
・・・狆に縮緬の着物を着せて、お附きの人間をつけて置く人が、彼の門前で死に瀕する行倒れを放って置くのは正しいことか。そういう人に媚びて、ほんとの同情をごまかしたり、知らない振りをするのは正しいことか。優しい鼓舞と助力は待ち望まれて・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈け出して、井の端に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「門前の小僧は習わぬ経を誦む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習になっているので忍藻も自然太刀や薙刀のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫