・・・ 無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬという話をすると、それを聞いた生徒の一人がすっくと起立った。「先生、虫じゃいけませんか」「ええ、虫は鳥な・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そして老人がまだ口を開く隙のないうちに、あわただしく、吃りながら、さも待ち兼ねていたように、こう云った。「おじさん。聞いておくれ。おいらはもう二日このかたなんにも食わないのだ。」 青年の常で、感情は急劇に変化する。殊に親の手を離れて・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・すべてこの宅地を開く時に自然のままを残したのである。 藤さんは、水のそばの、苔の被った石の上に踞んでいる。水ぎわにちらほらと三葉四葉ついた櫨の実生えが、真赤な色に染っている。自分が近づけば、水の面が小砂を投げたように痺れを打つ。「お・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あわててしぶい眼を開くと蛍がすいと額を横ぎります。佐吉さんの家へ辿り着いたら、佐吉さんの家には沼津の実家のお母さんがやって来て居ました。私は御免蒙って二階へ上り、蚊帳を三角に釣って寝てしまいました。言い争うような声が聞えたので眼を覚まし、窓・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・向うから来る女が口を開く。おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている。あの兜を脱がせて、その中へおれの包みを入れたらよかろうと思う。紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・恰度月見草が一時に開くころである。咲いた月見草の花を取って嗅いでみてもそんな匂いはしない。あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・があかないから、わたしお隣の緑軒でかけてきましたわ」お絹はそう言って、鼻頭ににじみでた汗をふいていた。 辰之助は序幕に間に合った。「河内山」がすんで、「盛綱陣屋」が開く時分に、先刻から場席を留守にしていたお絹が、やっと落ち著いた顔を・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・それは年年秋月与二春花一 〔年年 秋の月と春の花と行楽何知鬢欲レ華 行楽して何ぞ知らん鬢華らんと欲するを隔レ水唯開川口店 水を隔てて唯だ開く川口の店背レ空鎖葛西家 を背にして空しく鎖す葛西の家紅裙翠黛人終・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・繊巧な模様のような葉のところどころに黄色な花が小さく開く。淡緑色の小さな玉が幾つか麦藁の上に軽く置かれた。太十は畑の隅に柱を立てて番小屋を造った。屋根は栗幹で葺いて周囲には蓆を吊った。いつしか高くなった蜀黍は其広く長い葉が絶えずざわついて稀・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫