・・・ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある熱心があるとはみえない。 こういうと君はまたきっと、「いやしくも男子たるものがそう妻子に恋々としていられるか」と・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退った。なるほどこの公の歩くさきには旋風が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 津田君はかつて桃山に閑居していた事がある。そこで久しく人間から遠ざかって朝暮ただ鳥声に親しんでいた頃、音楽というものはこの鳥の声のようなものから出発すべきものではないかと考えた事があるそうである。津田君が今日その作品に附する態度はやは・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・彼は田舎に閑居して都の中央にある大伽藍を遥かに眺めたつもりであった。余は三度び首を出した。そして彼のいわゆる「倫敦の方」へと視線を延ばした。しかしウェストミンスターも見えぬ、セント・ポールズも見えぬ。数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・で油気がなくなった老朽の自転車に万里の波濤を超えて遥々と逢いに来たようなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らんとちょっと不審を起してみる、思うにその年限は疾ッくの昔に来ていて今まで物置の隅に閑居静養を専らにした奴に違ない、計らざり・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 孔子が、小人閑居して不善を為す と云ったのは、流石に孔子様だ。今私は、自分で困るほどひまだ。否、強いてひまにさせられて居る。何かしなければならないと、心に思って居ても、現在することがないと、下らないことを思う。彼の言葉ではないが、雑念・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・曰く「小人閑居して不善をなす」明治・大正の女流教育家たちは、その解釈を、日本資本主義の興隆期らしい楽天性と卑俗性とで与えた。人間は目的を持って努力の生活をすれば、自ら身体は強健になり、蓄財も出来、老後は天命を楽しめるのである。「怒るな。働け・・・ 宮本百合子 「私たちの社会生物学」
出典:青空文庫