・・・――とても汽車に間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・上り列車に間に合うかどうかは可也怪しいのに違いなかった。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。彼は棗のようにまるまると肥った、短い顋髯の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。「妙なこともありますね。××・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 緋鹿子の上へ着たのを見て、「待っせえ、あいにく襷がねえ、私がこの一張羅の三尺じゃあ間に合うめえ! と、可かろう、合したものの上へ〆めるんだ、濡れていても構うめえ、どッこいしょ。」 七兵衛はばったのような足つきで不行儀に突立つと・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・締切を過ぎて、何度も東京の雑誌社から電報の催促を受けている原稿だったが、今日の午後三時までに近所の郵便局へ持って行けば、間に合うかも知れなかった。「三時、三時……」 三時になれば眠れるぞと、子供をあやすように自分に言いきかせて、――・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・火ぐらい木葉を拾って来ても間に合うが、明日食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代に力のない嘆息を洩した。頭髪を乱して、血の色のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分憐な様であった。 其所へのっそり帰っ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・むろん食うに食われない理屈はない、家賃、米代以下お新の学校費まで計算して、なるほど二十五円で間に合わそうと思えば間に合うのである。 それで石井翁の主張は、間に合いさえすれば、それでやってゆく。いまさらわしが隠居仕事で候のと言って、腰弁当・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、兎に角余程早く起き出て手捷くやらないでは学校へ往く間に合うようには出来ないのみならず、この事が悉皆済んで仕舞わないうちは誰も朝飯を食べることは出来ないのでした。斯のように神仏を崇敬す・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・の正月に間に合うように帰つて行く。しかし帰ろうにも、帰れない人達は、北海道で「越年」しなければならなくなるわけである。冬になると、北海道の奥地にいる労働者は島流しにされた俊寛のように、せめて内地の陸の見えるところへまでゞも行きたいと、海のあ・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・定期券を持っていたからこれから走って間に合うかもしれなかった。彼は二、三歩もどった。がそうしながらもあやふやな気があった。笛が鳴った。ガタンガタンという音が前方の方から順次に聞えてきて、列車が動きだした。そうなってしまうと、今度はハッキリ自・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・はじめは掌で、お顔の汗を拭い払って居りましたが、とてもそんなことで間に合うような汗ではございませぬ。それこそ、まるで滝のよう、額から流れ落ちる汗は、一方は鼻筋を伝い、一方はこめかみを伝い、ざあざあ顔中を洗いつくして、そうしてみんな顎を伝って・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫