・・・が、間近に来たのを見ると、たとい病的な弱々しさはあっても、存外ういういしい処はなかった。僕は彼女の横顔を見ながら、いつか日かげの土に育った、小さい球根を考えたりしていた。「おい、君の隣に坐っているのはね、――」 譚は老酒に赤らんだ顔・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・眼をあけると間近かにアグネスの眠った顔があった。クララを姉とも親とも慕う無邪気な、素直な、天使のように浄らかなアグネス。クララがこの二、三日ややともすると眼に涙をためているのを見て、自分も一緒に涙ぐんでいたアグネス。……そのアグネスの睫毛は・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 袖の香も目前に漾う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜の口を抜くのを差控えたほどであった。 汽車に連る・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・……茶町という旅館間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」 外套の袖を手で掲げて、「十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・餌箱を検べる体に、財布を覗いて鬱ぎ込む、歯磨屋の卓子の上に、お試用に掬出した粉が白く散って、売るものの鰌髯にも薄り霜を置く――初夜過ぎになると、その一時々々、大道店の灯筋を、霧で押伏せらるる間が次第に間近になって、盛返す景気がその毎に、遅く・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。「人間が落ちたか、獺でも駈け廻るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」 これは、その翌日の晩、おなじ旅店の、下座敷でのことであった。…… 境は奈良井宿・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お母さんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には痣が。」 睫毛がふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。…・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・そして、もうすぐお寺が間近になった時分に、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきました。 あや子は帰ろうかと思いましたが、せっかくここまできて、買わずに帰るのが残念だという気がしましたので、急いでお寺へゆきますと、もういろいろな店は、片づきかけて・・・ 小川未明 「海ほおずき」
・・・ それはもう式も間近かに迫ったある日のこと、はたの人にすすめられて、美粧院へ行ったかえり、心斎橋筋の雑閙のなかで、ちょこちょここちらへ歩いて来るあの人の姿を見つけ、あらと立ちすくんでいると、向うでも気づき、えへっといった笑い顔で寄って来・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。その高い音と関係があると言え・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫