・・・ 一山に寺々を構えた、その一谷を町口へ出はずれの窮路、陋巷といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭う中に、芬と白檀の薫が立った。小さな仏師の家であった。 一小間硝子を張って、小形の仏龕、塔のうつし、その祖師の像などを並べた・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。 わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・二十四歳にして新聞社長になり、株ですって、陋巷に史書をあさり、ペン一本の生活もしました。小説も書いたようです。大町桂月、福本日南等と交友あり、桂月を罵って、仙をてらう、と云いつつ、おのれも某伯、某男、某子等の知遇を受け、熱烈な皇室中心主義者・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・「私にも、陋巷の聖母があった。」 もとより、痩意地の言葉である。地上の、どんな女性を描いてみても、あのミケランジェロの聖母とは、似ても似つかぬ。青鷺と、ひきがえるくらいの差がある。たとえば、私が荻窪の下宿にいたとき、近くの支那そばやへ、・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。そんな申しわけを呟きながら、笠井さんは、ずいぶん乱暴な、でたらめな作品を、眼をつぶって書き殴っては、発表した。生活への殉愛である、という。けれども、このご・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・このあとの映画で、不幸なるラート教授が陋巷の闇を縫うてとぼとぼ歩く場面でどことなく聞こえて来る汽笛だかなんだかわからぬ妙な音もやはりそういう意味で使われたものであろう。運命ののろいの声とでもいうような感じを与えるものである。 俳諧連句に・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 最初にハンブルグの一陋巷の屋根が現われ鵞鳥の鳴き声が聞こえ、やがて、それらの鵞鳥を荷車へ積み込む光景が現われる。次には、とある店先のショーウィンドウの鎧戸が引き上げられる、その音のガーガーと鵞鳥のガーガーが交錯する。そうしてこの窓にヒ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・四時から再び始まる講義までの二三時間を下宿に帰ろうとすれば電車で空費する時間が大部分になるので、ほど近いいろいろの美術館をたんねんに見物したり、旧ベルリンの古めかしい街区のことさらに陋巷を求めて彷徨したり、ティアガルテンの木立ちを縫うてみた・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・根津の社前より不忍池の北端に出る陋巷は即宮永町である。電車線路のいまだ布設せられなかった頃、わたくしは此のあたりの裏町の光景に興味を覚えて之を拙作の小説歓楽というものの中に記述したことがあった。 明治四十二三年の頃鴎外先生は学生時代のむ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷となり、桜草のことを言う人もない。 ダリヤは天竺牡丹といわれ稀に見るものとして珍重された。それはコスモスの流行よりも年代はずっと早かったであろう。チュリップ、ヒヤシンス、ベコニヤなどもダリヤと同・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫