・・・溪間の温泉宿なので日が翳り易い。溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 明治四十二年、二月二日。陰りて風なく、寒からず。夕に赤坂の八百勘に往く。所謂北斗会とて陸軍省に出入する新聞記者等の会合なり。席上東京朝日新聞記者村山某、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加う。予村山某と庭の飛石の間に倒れ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・常に苦痛と希望とを綯いまぜて、人間の意志を照りかえしながら輝きつつ翳りつつ推移してゆく。現実の辛酸が我々を打ちのめしもするが又賢くもする通り、歴史の緊迫した瞬間、文学は一見迂遠に見えるが実は、ある時間が経つと最も豊富な形でその諸経験を広くは・・・ 宮本百合子 「文学の流れ」
・・・ 二十六日、天陰りて霧あり。きょうは米子に往かんと、かねて心がまえしたりしが、偶々信濃新報を見しに、処々の水害にかえり路の安からぬこと、かずかず書きしるしたれば、最早京に還るべき期も迫りたるに、ここに停まること久しきにすぎて、思いかけず・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫