・・・窓からは、朧夜の月の光の下に、この町の堂母なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車な青年が・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 四 金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向くと、陽春三四月の頃は、天の一方をぽっと染めて、銀河の横たうごとき、一条の雲ならぬ紅の霞が懸る。…… 遠山の桜に髣髴たる色であるから、花の盛には相・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・是れ先生の文章の常に真気惻々人を動かす所以であって、而も陽春白雪利する者少き所以である。而して単に其文字から言っても、漢文の趣味の十分に解せられない今日に於て、多数人士の愛読する所とならぬは当然である。先生「一年有半」中に、 夫文人・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・佐伯は、れいの服装に、私の着物在中の風呂敷包みを持ち、私は小さすぎる制服制帽に下駄ばきという苦学生の恰好で、陽春の午後の暖い日ざしを浴び、ぶらぶら歩いていたのである。「どこかで、お茶でも飲みましょう。」私は、熊本君に伺った。「そうで・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・落花紛々の陽春なり。屋台の裏にも山桜の大木三本有之、微風吹き来る度毎に、おびただしく花びらこぼれ飛び散り、落花繽紛として屋台の内部にまで吹き込み、意気さかんの弓術修行者は酔わじと欲するもかなわぬ風情、御賢察のほど願上候。然るに、ここに突如と・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・そこに乞食が一人、いつ見ても同じ所で陽春の日光に浴しながらしらみをとっていた。言葉どおりにぼろぼろの着物をきて、頬かぶりをした手ぬぐいの穴から一束の蓬髪が飛び出していたように思う。 しらみを取っているのだということはもちろんはじめは知ら・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
出典:青空文庫