・・・そして、しばらくたつとまた、若草が芽をふいて、陽炎のたつ、春がめぐってきたのであります。 お城の内には、花が咲き乱れました。みつばちは太陽の上る前から、花の周囲に集まって、羽を鳴らして歌っていました。ほんとうに、のびのびとした、いい日和・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・うす暗い、煤けた家の裡の陽炎のように上る湯気には、また限りないなつかしさが籠る。そして季節は秋の末であろうか、ストーヴには火が燃えている。小猫が、安心をして、其の傍に火の方を向いて坐っている。 ミレーは、独り、この絵ばかりでなしに、どの・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・路の遠くには陽炎がうらうらとたっている。 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにち・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・土橋から少し離れて馬頭観音が有り無しの陽炎の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草の小束がそこに抛り出されている。いいという。なるはど悪くはない。今はじまったことでは無いが、自分は先輩のいかにも先輩だけあるのに感服させられて、ハイな・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 自分はもくもくと日のさした障子を見つめて、陽炎のような心持になる。「私ただ今お邪魔じゃございませんか」「何がです?」「お手紙はお急ぎじゃないのですか」「そうですね。――郵便の船は午に出るんでしたね」「ええ。ではあと・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私もまた、眼帯のために、うつうつ気が鬱して、待合室の窓からそとの椎の若葉を眺めてみても、椎の若葉がひどい陽炎に包まれてめらめら青く燃えあがっているように見え、外界のものがすべて、遠いお伽噺の国の中に在るように思われ、水野さんのお顔が、あんな・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・そこに干してある蒲団からはぽかぽかと暖かい陽炎が立っているようであった。湿った庭の土からは、かすかに白い霧が立って、それがわずかな気紛れな風の戦ぎにあおられて小さな渦を巻いたりしていた。子供等は皆学校へ行っているし、他の家族もどこで何をして・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・物理学の方面だけで見ると一体にドイツ学派の仕事は単色で英国派の仕事には色彩の陽炎とでもいったものを伴ったものが多いような気がするが、それは唯そんな気がするだけで具体的の説明は六かしい。 三 人間の個性の差別が・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水の因果を受くる理なしと思えば。睫に宿る露の珠に、写ると見れば砕けたる、君の面影・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・真鉄の盾、黒鉄の甲が野を蔽う秋の陽炎のごとく見えて敵遠くより寄すると知れば塔上の鐘を鳴らす。星黒き夜、壁上を歩む哨兵の隙を見て、逃れ出ずる囚人の、逆しまに落す松明の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心傲れる市民の、君の政非なりとて蟻の・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫