・・・ 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据えて、松は心なく光琳風の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりし・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・しかし確に箪笥を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変はない。縁端から、台所に出て真闇の中をそっと覗くと、臭気のある冷たい空気が気味悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高く・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 杜氏は、醸造場へ来ると事務所へ与助を呼んで、障子を閉め切って、外へ話がもれないように小声で主人の旨を伝えた。 お正月に、餅につけて食う砂糖だけはあると思って、帆前垂にくるんだザラメを、小麦俵を積重ねた間にかくして、与助は一と息・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖することもせざる、さすがに御神の御稜威ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢などは見・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・彼は入口まで行った。障子にはめてある硝子には半紙が貼ってあって、ハッキリ中は見えなかったが、女はいなかった。龍介は入口の硝子戸によりかかりながら、家の中へちょっと口笛を吹いてみた。が、出てこない。その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかか・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居では湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。「ここの家には飽きちゃった。」 と言い出すのは三郎だ。「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行っ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・女の人は少し頭痛がしたので奥で寝んでいたところ、お長が裏口へ廻って、障子を叩いて起してくれたのだと言う。「もう何ともございません」と伏し目になる。起きて着物をちゃんとして出てきたものらしい。ややあって、「あなたはこの節は少しはおよろ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・…… 私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。 季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと脊中をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・ 田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣、樫垣、要垣、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの繩のまだ取られずについているのも見える。一、二丁行くと千駄谷通りで、毎朝、演習の兵隊が駆け足で通ってい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・柱は竹を堀り立てたばかり、屋根は骨ばかりの障子に荒筵をかけたままで、人の住むとも思われぬが、内を覗いてみると、船板を並べた上に、破れ蒲団がころがっている。蒲団と云えば蒲団、古綿の板と云えばそうである。小屋のすぐ前に屋台店のようなものが出来て・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫