・・・ 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならん・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・が、そこいらは打寄せる波が崩れるところなので、二人はもろともに幾度も白い泡の渦巻の中に姿を隠しました。やがて若者は這うようにして波打際にたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は有頂天になってそこまで飛んで・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえおおかた姿を隠した北海道を西から東に横断して、着てみると、華氏零下二十―三十度という空気も凍たような朝が毎日続いた。氷った天、氷った土。一夜の暴風雪に家々の軒のまったく塞った様も見た。広く寒い港内にはどこ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。(まず・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・臍も脛も出ずるがままに隠しもせず、奮闘といえば名は美しいけれど、この醜態は何のざまぞ。 自分は何の為にこんな事をするのか、こんな事までせねば生きていられないのか、果なき人生に露のごとき命を貪って、こんな醜態をも厭わない情なさ、何という卑・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 人の前でのろけを書きゃアがった、な」「のろけじゃアないことよ、御無沙汰しているから、お詫びの手紙だ、わ」「『母より承わり、うれしく』だ――当て名を書け、当て名を! 隠したッて知れてらア」「じゃア、書く、わ」笑いながら、「うわ封・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・結城以後影を隠した徳用・堅削を再出して僅かに連絡を保たしめるほかには少しも本文に連鎖の無い独立した武勇談である。第九輯巻二十九の巻初に馬琴が特にこの京都の物語の決して無用にあらざるを強弁するは当時既に無用論があったものと見える。一体、親兵衛・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 二人は、そこにあった小舎の中に、身を隠しました。「父ちゃん、さびしいの。」と、子供はいいました。「ああ、さびしい。」「父ちゃん、なにか、おもしろい話をして、聞かしておくれよ。」と、十一、二の男の子は、父親に頼みました。・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・「何が? 馬鹿言え」「隠したって駄目よ。どこの芸者?」「芸者だ? 馬鹿言え! よその立派な上さんだ」「とか何とかおっしゃいますね。白粉っけなしの、わざと櫛巻か何かで堅気らしく見せたって、商売人はどこかこう意気だからたまらない・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・「嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違いまっか。僕のにらんだ眼にくるいはおまっか。どないだ? 聴きはれしめへんか。隠さんと言っとくなはれ」 ねちねちとからんで来た。 私は黙っていた。しかし・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫