・・・そして、もう誰が見ても、祝言の夜、あ、螢がと叫んだあの無邪気な登勢ではなかったから、これでは御隠居も追いだせまいと人々は沙汰したが、けれどもお定はそんな登勢がかえって癪にさわるらしく、病気のため嫁の悪口いいふらしに歩けぬのが残念だと呟いてい・・・ 織田作之助 「螢」
・・・彼家じゃ奥様も好い方だし御隠居様も小まめにちょこまかなさるが人柄は極く好い方だし、お清様は出戻りだけに何処か執拗れてるが、然し気質は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想して「水の世話にさえならなきゃ如彼奴に口なん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうちは取れる金なら取るようにするが得だ、叔父さんが出る気さえあればきっと周旋する、どうせ隠居仕事のつもりだから十円だって決して恥・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・そこで与一は赤沢宗益というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的強請的に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率い・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・そこには腰の低い小間物屋のおかみさんも店の外まで出て、おげんの近づくのを待っていて、「御隠居さま、どうかまあ御機嫌よう」 と手を揉み揉み挨拶した。 熊吉は往来で姉の風体を眺めて、子供のように噴飯したいような顔付を見せたが、やがて・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・別に、崖の中途に小屋を建てて、鉱泉に老を養おうとする隠居さん夫婦もあった。 春の新学年前から塾では町立の看板を掛けた。同時に、高瀬という新教員を迎えることに成った。学年前の休みに、先生は東京から着いた高瀬をここへ案内して来た。岡の上から・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮してい・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・わけてもひどいのは、半分ほどきかけの、女の汚れた袷をそのまま丸めて懐へつっこんで来た頭の禿げた上品な顔の御隠居でした。殆んど破れかぶれに其の布を、拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自嘲の笑を浮べながら値を張らせて居ました。頽廃の町なのであり・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・「まあ、ご隠居で。」「手きびしい。一つ飲み給え。」「もうたくさん。」大将は会釈をして立ち上りかけた。「それでは、これで失礼します。」「待った、待った。」先生は極度にあわてて大将を引きとめ、「どうしたという事だ。話は、これからです・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・老母も奥の隠居部屋から出て来て、めがねでたんねんに検査してはいたが、結局だれにもなんだかわからなかった。「ひょっとしたら私の病気にでもきくというのでだれかが送ってくれたのじゃないかしら、煎じてでも飲めというのじゃないかしら」こんな事も考・・・ 寺田寅彦 「球根」
出典:青空文庫