・・・僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣には行かなかった。しかし彼と話しているうちに彼もまた親和力の為に動かされていることを発見した。――「その植木屋の娘と云うのは器量も善いし、気立も善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」「い・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ ――略して申すのですが、そこへ案内もなく、ずかずかと入って来て、立状にちょっと私を尻目にかけて、炉の左の座についた一人があります――山伏か、隠者か、と思う風采で、ものの鷹揚な、悪く言えば傲慢な、下手が画に描いた、奥州めぐりの水戸の黄門・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・……称えかたは相応わぬにもせよ、拙な山水画の裡の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。 心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜も扮した、劇中女主人公の王妃なる、玉の鳳凰のごときが掲げてあった。「そして、……」 声も朗かに・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・然るに文人に強うるに依然清貧なる隠者生活を以てし文人をして死したる思想の木乃伊たらしめんとする如き世間の圧迫に対しては余り感知せざる如く、蝸牛の殻に安んじて小ニヒリズムや小ヘドニズムを歌って而して独り自ら高しとしておる。一部の人士は今の文人・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙閑かに巻きて空にのぼるを見る、樵夫の住む所、はた隠者の独座して炉に対するところか。 これらの美なる風光はわれにとりて、過去五年の間、かの盲者における景色のごときものにてはあらざりき。一室に孤・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。大隠は朝市に隠る、と。」先生は少し酔って来たようである。「へへ、」大将はあいまいに笑った。「まあ、ご隠居で。」「手きびしい。一つ飲み給え。」「もうたくさん。」大将は会釈をして・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・と答えて断り、こっそりひとりで寝酒など飲んで寝る、というやや贋隠者のあけくれにも似たる生活をしているのだけれども、それ以前の十五年間の東京生活に於いては、最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、所謂最下等の人物たちと語り合っていたもので・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲がつねに賑やかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・先生は「日本における英国の隠者」というような高尚な生活を送っているらしく思われた。博士問題に関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音を破る価ありと信じて、とくに余のために認めてくれたものと見える。 ・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
出典:青空文庫