・・・「それとも隣室だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた衣ものぐらいの場所にありましてね。」 信也氏は思わず内端に袖を払った。「見た時は、もっとも、気もぼっとし・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と怨めしそうな、情ない顔をする。 ぎょろりと目を剥き、険な面で、「これえ。」と言った。 が、鰯の催促をしたようで。「今、焼いとるんや。」 と隣室の茶の室で、女房の、その、上の姉が皺びた声。「なんまいだ。」 ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・……そのまま忍寄って、密とその幕を引なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとま・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止まず涙が出た。着たままで寝ていた僕はそのまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現われた時分に戸村の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 僕は隣室の状景を想像する心持ちよりも、むしろこの一言にむかッとした。これがはたして事実なら――して、「お嫁に行くの」はさきに僕も聴いたことがあるから、――現在、吉弥の両親は、その定まった話をもたらしているのだと思われた。あの腹の黒い母・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・吉田は一時に不安と憤懣の念に襲われざるを得なかった。吉田は隣室に寝ている母親を呼ぶことを考えたが、母親はやはり流行性感冒のようなものにかかって二三日前から寝ているのだった。そのことについては吉田は自分のことも考え、また母親のことも考えて看護・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・少女の室の隣室が二人の室なのである。朝田は玄関口へ廻る。「ほら妙なものでしょう。」と少女の指さす方を見ても別に何も見当らない。神崎はきょろきょろしながら、「春子さん、何物も無いじアありませんか。」「ほら其処に妙な物が。……貴様お・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・自分が先生に向て自分の希望を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望を全く否む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈はない……」「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋ていることを不快には思っていない」との・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・とばあさんは隣室へ聞えないように声をひそませながら云った。「あゝ、シンドかったな。」 じいさんはぐったりしていた。それだのに両人は隣室にいる大佐に気がねして、長く横たわることもよくせずにちぢこまっていた。「お前、腹がへりゃせんか・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫