・・・ 隣家を外から伺うと、人声一つせず、ひっそりと静まりかえっていた。たゞ、鶏がコツ/\餌を拾っているばかりだ。すべてがいつもと変っていなかった。でも彼は、反物が気にかゝって落ちつけなかった。 彼は家のぐるりを一周して納屋へ這入って見た・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家の児が起きると内儀の内職の邪魔になるわネ。そんならいいよ買って来るから。と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉を手にし、外へ出でんとす。「オイオイ此品でも持って行かねえでどうするつもりだ。・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・というは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から来る反射が、まともにわたしの家の入口の格子をも露地に接した窓をも射るからであった。わたしはまだ日の出ないうちに朝顔に水をそそぐことの発育を促すに好い方法であると知って、それを毎朝の日課のようにし・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・その中でも、一番の高齢者で、いちばん元気よく見えるのは隣家のお婆さんであった。この人は酒の盃を前に置いて、「どうか、まあ太郎さんにもよいおよめさんを見つけてあげたいもんだ。とうさんの御心配で、こうして家もできたし。この次ぎは、およめさん・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・おげんはその台所に居ながらでも朝顔の枯葉の黄ばみ残った隣家の垣根や、一方に続いた二階の屋根などを見ることが出来た。「おさださん、わたしも一つお手伝いせず」 とおげんはそこに立働く弟の連合に言った。秋の野菜の中でも新物の里芋なぞが出る・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・空襲の時にも私は、窓をひらいて首をつき出し、隣家のラジオの、一機はどうして一機はどうしたとかいう報告を聞きとって、まず大丈夫、と家の者に言って、用をすましていたものである。 いや、実は、あのラジオの機械というものは、少し高い。くれるとい・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・「あ、十二時だ。」隣家の柱時計が、そのとき、ぼうん、ぼうん、鳴りはじめたのである。「時計は、あれは生き物だね。深夜の十二時を打つときは、はじめから、音がちがうね。厳粛な、ためいきに似た打ちかたをするんだ。生きものなんだね。最初の一つ、ぼ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ そのとしの夏、三郎は隣家の愛犬を殺した。愛犬は狆であった。夜、狆はけたたましく吠えたてた。ながい遠吠えやら、きゃんきゃんというせわしない悲鳴やら、苦痛に堪えかねたような大げさな唸り声やら、様様の鳴き声をまぜて騒ぎたてた。一時間くらい鳴・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ ジュセッポの家で時ならぬ嵐が起って隣家の耳をそばだてさせる事も珍しくない。アクセントのおかしいイタリア人の声が次第に高くなる。そんな時は細君のことをアナタが/\と云う声が特別に耳立って聞える。嵐が絶頂になって、おしまいに細君の啜り泣き・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 子供の時分に私の隣家に信心深い老人がいた。彼は手足に蚊がとまって吸おうとするのを見つけると、静かにそれを追いのけるという事が金棒引きの口から伝えられていた。そしてそれが一つの笑い話の種になっていた。私も人並みに笑ってはいたが、その老人・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
出典:青空文庫