・・・ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くな・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ 昔より言い伝えて、随筆雑記に俤を留め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるものとなりて、峰づたいに日光辺まで、のさのさと出で来らむとする概あり。 古来有名なる、岩代国会津の朱の盤、かの老媼茶話に、奥・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ ところが四年生になって間もなくのある日、安子は仕立屋の伜の春ちゃんの所へ鉛筆と雑記帳を持って行き、「これ上げるから、あたいの好い人になってね」そう言って春ちゃんの顔をじっと媚を含んだ眼で見つめた。 春ちゃんは無口な大人しい子供で、・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・で、自分は其処の水際に蹲って釣ったり、其処の堤上に寝転がって、たまたま得た何かを雑記帳に一行二行記しつけたりして毎日楽んだ。特にその幾日というものは其処で好い漁をしたので、家を出る時には既に西袋の景を思浮べ、路を行く時にも早く雲影水光のわが・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・透谷君の晩年を慰めた一人の女の友達があったが、病床にいる時に、それとなくこの人に書いて宛てた慰めの言葉は、確か『山庵雑記』の中に出ている筈だ。あれは極く短いものだが、兎に角病人に対する深い理解や、同情が籠っていると思う。この女の友達が死んだ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ あの言葉、この言葉、三十にちかき雑記帳それぞれにくしゃくしゃ満載、みんな君への楽しきお土産、けれども非運、関税のべら棒に高くて、あたら無数の宝物、お役所の、青ペンキで塗りつぶされたるトタン屋根の倉庫へ、どさんとほうり込まれて、ぴし・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・ひとの雑記帳とってって。」 そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、「礼。」と言いました。 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやが・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・戦争については周知のような態度であった尾崎士郎のような作家でさえ、あわただしい雑記のうちに、印象が深められずに逸走してしまう作家として苦しい瞬間のあることをほのめかしている。火野葦平が、文芸春秋に書いたビルマの戦線記事の中には、アメリカの空・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ スムールイの黒トランクの中には『ホーマー教訓集』『砲兵雑記』『セデンガリ卿の書翰集』『毒虫・南京虫とその駆除法、附・此が携帯者の扱い方』などという本があった。始めの方がちぎれて無くなってしまっている本。終りがない本。そういう本がつまっ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫