・・・この雑鬧な往来の中でも障碍になるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。 クララは寺の入口を這入るとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・終には洋燈を戸棚へ入れるというような、危険千万な事になったので、転居をするような仕末、一時は非常な評判になって、家の前は、見物の群集で雑沓して、売物店まで出たとの事。 これと似た談が房州にもある、何でも白浜の近方だったが、農夫以前の話と・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・が、町も村も大変な雑鬧ですから、その山の方へ行ってみます。――貴女は、つい、お見それ申しましたが、おなじ宿にでもおいでなのですか。夫人 ええ、じき(お傍にと言う意味籠……ですが、階下の奥に。あの……画家 それはどうも――失礼します。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった。古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ば・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ またある繁華な雑沓をきわめた都会をケーが歩いていましたときに、むこうから走ってきた自動車が、危うく殺すばかりに一人のでっち小僧をはねとばして、ふりむきもせずゆきすぎようとしましたから、彼は袋の砂をつかむが早いか、車輪に投げかけました。・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ところが、その翌る年の七月二十四日の陶器祭、この日は瀬戸物町に陶器作りの人形が出て、年に一度の賑いで、私の心も浮々としていたが、その雑鬧の中で私はぱったり文子に出くわしました。母親といっしょに祭見物に来ていたのです。文子は私の顔を見ても、つ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・「大阪曾根崎署では十九日朝九時、約五十名の制服警官をくり出して梅田自由市場の煙草販売業者の一斉取締りを断行、折柄の雑沓の中で樫棒、煉瓦が入れ交つての大乱闘が行はれ重軽傷者数名を出した。負傷者は直ちに北区大同病院にかつぎ込み加療中。・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ 乗る客、下りる客の雑踏の間をわれら大股に歩みて立ち去り、停車場より波止場まで、波止場より南洋丸まで二人一言も交えざりき。 船に上りしころは日ようやく暮れて東の空には月いで、わが影淡く甲板に落ちたり。卓あり、粗末なる椅子二個を備え、・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・各中隊へ分れて行く者の群が雑沓していた。送って来た者は、どちらにいるか、私は左右を振りかえってよく見たのだが、親爺は見つからなかった。それが、私が着物を纒めて中隊の前へ出て行くと、そこに、手提げ籠をさげた親爺が立っていた。 私は黙って、・・・ 黒島伝治 「入営前後」
出典:青空文庫