・・・いかにかれは零落するとも、都の巷に白馬を命として埃芥のように沈澱してしまう人ではなかった。 しかし「ひげ」の「五年十年」はあたらなかった、二十年ぶりに豊吉は帰って来た、しかも「ひげ」の「五年十年」には意味があるので、実にあたったのである・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・人の不幸や、零落につけこんで、その秘密まで聞こうとするのは、決して心あるもののすることでないとは承知しながらも、彼に二度まで遇い、その遇うた場所と趣とが少からず自分を動かしたために、それらを顧慮することができなかったのである。「ヘイ、お・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「実、私も困り切ているに違いないけエど、いくら零落ても妾になぞ成る気はありませんよ私には。そんな浅間しいことが何で出来ましょうか。祖母さんに、どんな事が有ッても其様な真似は私はしない、私のやれる丈けやって妹と弟の行末を見届けるから心配し・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ 不平と猜忌と高慢とですごく光った目が、高慢は半ばくじけ不平は酒にのまれ、不平なき猜忌は『野卑』に染まり、今や怪しく濁って、多少血走っていて、どこともなく零落の影が容貌の上に漂うている。 自分はなぜ東京に上ったか、またいつ来たか、今・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ 日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎のために貶せられて零落したものであった。資性正大にして健剛な日蓮の濁りなき年少の心には、この事実は深き疑団とならずにはいなかったろう。何故に悪が善に勝つかということほど純直な童心をいたましめるも・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ヴェルレエヌと赤い着物とは、一体どんなつながりがあるのか、われながら甚だ唐突で、ひどくてれくさかったけれど、私は自分に零落を感じ、敗者を意識する時、必ずヴェルレエヌの泣きべその顔を思い出し、救われるのが常である。生きて行こうと思うのである。・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・「ああすっかり零落れてしまいました。今は京都でお茶の師匠をしているそうですが……」 道太は辰之助からその家にあった骨董品の話などを聞きながら、崖の下を歩いていた。飯を食う処は、その辺から見える山の裾にあったが、ぶらぶら歩くには適度の・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・或者は代言人の玄関番の如く、或者は歯医者の零落の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・の身の末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の零落、老衰、病死なぞいう特種の悲惨を附加・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわずかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和の美を味わしてくれたのである。 その頃・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫