・・・運わるく彼の挨拶がむこうの不注意からそのひとに通じなかったときや、彼が昨晩ほね折って貼りつけたばかりの電柱のビラが無慙にも剥ぎとられているのを発見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであった。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・甲府駅のまえまで、十五、六丁を一気に走ったら、もう、流石にぶったおれそうになった。電柱に抱きつくようにして寄りかかり、ぜいぜい咽喉を鳴らしながら一休みしていると、果して、私のまえをどんどん走ってゆく人たちは、口々に、柳町、望富閣、と叫び合っ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・気違いの真似だと言って電柱によじのぼったりする奴は気違いである、聖人賢者の真似をして、したり顔に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・かならず、電柱を突き、樹木の幹を殴りつけ、足もとの草を薙ぎ倒す。すぐ漁師まち。もう寝しずまっている。朝はやいのだから。泥の海。下駄のまま海にはいる。歯がみをして居る。死ぬことだけを考えてる。男ありて大声叱咤、私つぶやいて曰く、船橋のまちには・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・おそらく途中の本屋の店先かあるいは電柱のビラ紙かで、ちらと無意識に瞥見したかあるいは思い浮かべたこの文字が、識域のつい下の所に隠れていて、それが、この時急に飛び出して来たのかもしれないと思う。もっともそれにしたところで、広瀬中佐の銅像を見て・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・しかし崖に樹った電柱の処で崩壊の伝播が喰い止められているように見える。理由はまだよく分らないが、ことによるとこれは人工物の弱さを人工で補強することの出来る一例ではないかと思われた。両岸の崩壊箇所が向かい合っているのもやはり意味があるらしい。・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・とか「電柱だよ」とか一々説明してくれる人もあって、なんだか少し背中や首筋のへんがくすぐったいような気持ちもした。そういう人の同情に報いるためには私の絵がもう少し人の目にうまく見えなければ気の毒だと思うのであった。 ほんのだいたいの色と調・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 馬はと見ると電柱につながれてじっとして立っていた。すぐその前に水を入れた飼葉槽が置いてあるが、中の水は真黄色な泥水である。こんなきたない水を飲んだのだろうかと思うと厭な心持がした。馬の唇にはやはり血泡がたまっていた。 私は平生アン・・・ 寺田寅彦 「断片(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・十月頃の晴れた空の下に一望尽る処なき瓦屋根の海を見れば、やたらに突立っている電柱の丸太の浅間しさに呆れながら、とにかく東京は大きな都会であるという事を感じ得るのである。 人家の屋根の上をば山手線の電車が通る。それを越して霞ヶ関、日比谷、・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・昨日あたり山から伐出して来たといわぬばかりの生々しい丸太の電柱が、どうかすると向うの見えぬほど遠慮会釈もなく突立っている。その上に意匠の技術を無視した色のわるいペンキ塗の広告がベタベタ貼ってある。竹の葉の汚らしく枯れた松飾りの間からは、家の・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫