・・・ もしも東京市民が慌てて遁げ出すか、あるいはあの大正十二年の関東震災の場合と同様に、火事は消防隊が消してくれるものと思って、手をつかねて見物していたとしたら、全市は数時間で完全に灰になることは確実である。昔の徳川時代の江戸町民は永い経験・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の・・・ 永井荷風 「上野」
・・・しかしこれら市中の溝渠は大かた大正十二年癸亥の震災前後、街衢の改造されるにつれて、あるいは埋められ、あるいは暗渠となって地中に隠され、旧観を存するものは殆どないようになった。 そのころ、わたくしはわが日誌にむかしあって後に埋められた市中・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 然るに震災の後、いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を伝えて来るようになった。昨日聞いた時のように、今日もまた聞きたいものと、それとなく心待ちに待ちかまえるような事さえあるようになって来たのである。 鐘は昼夜を問わず・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学の建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てたとか、あまり大きくもない煉瓦の建物であったが、当時の法文科はその一つの建物の中に納っていたのである。しかもその二階は・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・一太の母はそのとき、「本当にお恥しくってお話申しあげも出来ないんですよ。震災のときこれの親父に死なれましてからってもの、もう手も足も出なくなっちゃいましてね」と、徐ろに永い、いつになっても限りのない貧の託ち話を始める。帰るとき、一太・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・「――元よくこの辺翔んでいた――都鳥でしたっけか、白い大っきい鳥――ちっともいなくなっちゃいましたね、震災からでしょうか」 区画整理が始まって、駒形通りは工場裏のように雑然としている。「無くなっちゃったかな――この模様じゃあぶな・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・と云ったのでナアーンダとあきらめ、いねちゃん、大笑い、帰りに盲滅法に歩いたら明治座の横のプラタナスの大変綺麗な並木のある新しい公園へ出て、震災後のこの辺の新鮮な風景を味いました。明治座八月興行の立看板が出ていて「彦六大いに笑う」三好十郎作、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・同君と木村荘八君との共著『大同石仏寺』が出たのは関東震災よりも前である。これでよほどはっきりして来たが、しかしまだ雲岡の全貌を伝えるには足りなかった。その後二十年くらいたって、奈良の飛鳥園が撮影しに行き、『雲岡石窟大観』という写真集を出した・・・ 和辻哲郎 「麦積山塑像の示唆するもの」
関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじって露伴先生から俳諧の指導をうけたことがある。その時の印象では、先生は実によく物の味のわかる人であり、またその味を人に伝えることの上手な人であった。俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫