・・・という世にいわゆる学者、宗教家達とは自らその信仰状態を異にする気の毒さはいう迄もない。 僕はかの観音経を読誦するに、「彼の観音力を念ずれば」という訓読法を用いないで、「念彼観音力」という音読法を用いる。蓋し僕には観音経の文句――なお一層・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすが・・・ 太宰治 「玩具」
・・・私は掛軸の文句を低く音読した。 寒暑栄枯天地之呼吸也。苦楽寵辱人生之呼吸也。達者ニ在ッテハ何ゾ必ズシモ其遽カニ至ルヲ驚カン哉。 これは先日、先生から読み方を教えられたばかりなので、私には何の苦も無く読めるのである。「流石にいい句・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・また左舷へ帰って室へはいって革鞄から『桂花集』を引っぱり出して欄へもたれて高く音読すると、艫で誰れか浮かれ節をやり出したので皆が其方を見る。ボーイにマッチを貰って煙草を吸う。吸殻を落すと船腹に引付いて落ちてすぐ見えなくなる。浦戸の燈台が小さ・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・先生がただすらすら音読して行って、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーションを黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマーの詩句の数節を暗唱していた・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・という意味の言葉に似ており、もう一つ脱線すると源頼光の音読がヘラクレースとどこか似通ってたり、もちろん暗合として一笑に付すればそれまでであるが、さればと言って暗合であるという科学的証明もむつかしいような事例はいくらでもある。ともかくも世・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・医科の男は相変らずこの家の二階の同じ室に居ると見えて、音読の声が友の下宿の二階に聞えているそうである。 雪ちゃんとその家庭について誌すべき事はこれだけである。このむしろ長々しい、つまらぬ叙事を読んで幾分かの興味を感ずる人があれば、それは・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。 三宅坂の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来の右側、いつでも夏らしく繁った老樹の下に、三、四台の荷車が休んでいる。二頭立の箱馬車が電車を追抜・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・フランスの一応恋愛を尊重するかのように見える習慣、婦人に対してつくす男の騎士道などというものを疑わず、その上に安住して、流麗な、傍観的態度でどっちかといえば甘い、客間で婦人たちに音読してきかせるにふさわしいような文章の作品を書いて行く。・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・すると彼は音読をやめた。否応なく読ませられることから胸のわるくなるような思いのするその本を眺めまわしていると、スムールイは、嗄れ声で皿洗い小僧に催促した。「お――、読みな」 スムールイの黒トランクの中には『ホーマー教訓集』『砲兵雑記・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫