・・・自分は蚕種検査の先生方の借り切り船へ御厄介になった。須崎のある人から稲荷新地の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。得月楼の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・そういう、西洋のえらい医学の大家の夢にも知らない療養法を須崎港の宿屋で長い間続けた。その手術を引き受けていたのは幡多生まれで幡多なまりの鮮明なお竹という女中であった。三十年前の善良にして忠実なるお竹の顔をありあり思い出すのであるが、その後の・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと思っている中、車掌が次は須崎町、お降りは御在ませんかといった。降る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・それから凡三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島須崎小梅三村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のために桜樹の害せられたものが多かったので、須崎村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それ・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫