・・・ ここらへ顔出しをせねばならぬ、救世軍とか云える人物。「そこでじゃ諸君、可えか、その熊手の値を聞いた海軍の水兵君が言わるるには、可、熊手屋、二円五十銭は分った、しかしながらじゃな、ここに持合わせの銭が五十銭ほか無い。すなわちこの五十・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、い・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・おれは言いだしたら引くのはいやだから、なるべく人の事に口出しせまいと思ってると言いつつ、あまり世間へ顔出しもせず、家の事でも、そういうつもりか若夫婦のやる事に容易に口出しもせぬ。そういう人であるから、自分の言ったことが、聞かれないと執念深く・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・当時は正岡子規がマダ学生で世間に顔出しせず、紅葉が淡島寒月にかぶれて「稲妻や二尺八寸ソリャこそ抜いた」というような字余りの談林風を吹かして世間を煙に巻いていた時代であった。この時代を離れては緑雨のこの句の興味はないが、月落ち烏啼いての調子は・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ と、言って出て行き、それきりおれのところへ顔出しもしなかったが、それから大分経って、損害賠償だといって、五十円請求して来た。 その手紙を見るなり、おれは、こともあろうに損害賠償とはなんだ、折角これまで尽して来てやったのに……と、直・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・細君は店へ顔出しするようなことは一度もなく、主人が儲けて持って帰る金を教会や慈善団体に寄附するのを唯一の仕事にしていた。ほんまに大将は可哀相な人だっせと仲居は言うのだったが、主人の顔には不幸の翳はなかった。 しかし、ある夜――戦争がはじ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・の家の遠縁に当る男らしく、師匠に用事のある顔をして、ちょこちょこ稽古場へ現われては、美しい安子に空しく胸を焦していたが、安子が稽古に通い出して一月許りたったある日、町内に不幸があって師匠がその告別式へ顔出しするため、小一時間ほど留守にした機・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・僕はもう小坂さんの家へは顔出しできない。君がきょう行くんだったら、ひとりで行けよ。僕はもう、いやだ。」 ひとは、恥ずかしくて身の置きどころの無くなった思いの時には、こんな無茶な怒りかたをするものである。 私たちは、おそい朝ごはん・・・ 太宰治 「佳日」
・・・十年前に、或る事件を起して、それからは故郷に顔出しのできない立場になっていたのである。「兄さんから、おゆるしが出たのですか?」私たちはトンカツ屋で、ビイルを飲みながら話した。「出たわけじゃ無いんでしょう。」「それは、兄さんの立場とし・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・Y君は、その日は明治節で、勤めが休みなので、二、三親戚へ、ごぶさたのおわびに廻って、これから、もう一軒、顔出しせねばならぬから、と、ともすれば、逃げ出そうとするのを、いや、その一軒を残して置くほうが、人生の味だ、完璧を望んでは、いけませんな・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
出典:青空文庫