・・・ 二人が風呂から上がると内儀さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこまった。 父は風呂で火照った顔を双手でなで上げながら、大きく気息を吐き出した。内儀さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているら・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 僕が食膳に向うと、子供はそばへ来て、つッ立ったまま、姉の方が、「学校は、もう、来月から始まるのよ」と言う。吉弥を今月中にという事件が忘れられない。弟の方はまた、「お父さん、いちじくを取っておくれ」と言う。 いちじくと言われ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・それでそんなとき――ことに食事のときなどは、彼らの足弱がかえって迷惑になった。食膳のものへとまりに来るときは追う箸をことさら緩っくり動かさなくてはならない。さもないと箸の先で汚ならしくも潰れてしまわないとも限らないのである。しかしそれでもま・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・夜食膳と云いならわした卑しい式の膳が出て来る。上には飯茶碗が二つ、箸箱は一つ、猪口が二ツと香のもの鉢は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立とな・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・成程、弟達は久しぶりで姉弟三人一緒になったことを悦んでくれ、姉の好きそうなものを用意しては食膳の上のことまで心配してくれる。しかし、肝心の相談となると首を傾げてしまって、唯々姉の様子を見ようとばかりしていた。おげんに言わせると、この弟達の煮・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・もしも、これがなかったら、われわれは食膳に向かって箸を取り上げることもできないであろうし、門の敷居をまたぐこともできないであろう。 空間の概略な計測には必ずしもメートル尺はいらない。人間の身体各部が最初の格好な物さしである。手の届かぬ距・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・宿では食膳を荒らす恐れがあるから飼わないそうである。宿で前に七面鳥を飼っていたが、無遠慮に客室へはいり込むのでよしたという。それにしても猫の少ないだけは確かである。ねずみが少ないためかもしれない。そうだとするとねずみの食うものが少ないせいか・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・そうして、今度ひとりで旅に出ると宿屋の食膳のおかずの食い方がわからないといったような風があるのではないか。 一本の稲の穂を教材とするのでも、一生懸命骨を折って三日も四日も徹夜して教程をこしらえてかかるからかえっていけないではないかと思う・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・ 私は『仰臥漫録』を繙いて、あの日々の食膳の献立を読む事に飽きざる興味を感じるものである。そうしてそれを読みながら、まだどういうわけか時々このゾラの小説の話を思い出すのである。 ほとんど腐朽に瀕した肉体を抱えてあれだけの戦闘と事業を・・・ 寺田寅彦 「子規の追憶」
・・・わざわざ一人前の食膳をこしらえさせるのが気の毒なくらいであったが、しかし静かで落ち着いてたいへんに気持ちがよかった。小さな座敷の窓には柿の葉の黄ばんだのが蝋石のような光沢を見せ、庭には赤いダーリアが燃えていた。一つとして絵にならないものはな・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫