・・・ おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・それかといって単なる学者では勿論駄目である。「映像の言葉」の駆使に熟達した映画監督の資格を同時に具えていなければならない。そういう人はなかなかそう容易く見附かるものではない。現在ドイツのウーファがこの点でほとんど独り舞台を見せているが、近頃・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・「なに、もう駄目でさ。今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。」 爺さんは植木屋の頭に使われて、其処此処の庭の手入れをしたり垣根を結えたりするのが仕事なのだ。それで・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 出がけに嫁が、上り框のところから、駄目をおして出ていった。「ああよし、よし……」 善ニョムさんは、そう寝床のなかで返事しながらうれしかった。いい嫁だ。孝行な倅にうってつけの気だてのよい嫁だ。老人の俺に仕事をさせまいとする心掛が・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 番頭は例の如くわれわれをあくまで仕様のない坊ちゃんだというように、にやにや笑いながら、「駄目ですよ。いくらにもなりませんよ。」「まあ、君、何冊あるか調べてから値をつけたまえ。」「揃っていても駄目ですよ。全くのはなし、他のお客様・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・「どうせ駄目だから殺しっちまあべ」 威勢よくいった。そうかと思うと暫らく沈黙に耽って居る。「殺した方あよかんべな」 投げ出したように低い声でいった。其処には対手に縋って留めてくれという意味もあった。だが殺すなという声は太十の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。四五日すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・「駄目だよ。あのインダラ鍛冶屋は。見ろよ、三尺鑿よりゃ六尺鑿の方が、先細と来てやがら」 小林は、鑿の事だと思って、そんな返答をした。「チョッ!」 秋山は舌打ちをした。 ――奴あ、ハムマーを耳ん中に押し込んでやがるんだ、き・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨い物店の硝子窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は、そんな事には構わねえ。外に物欲しげな人間が見ているのを、振り返ってもみずに、面白げに飲んだり食ったりしゃあが・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・文学の方で最近の傾向はシンボリズムとか、ミスチシズムとか云うのだが、イズムの中に彷徨いてる間や未だ駄目だね。象徴主義で云う霊肉一致も思想だけで、真実一致はして居らんじゃないか。で、私は露語の所謂ストリャッフヌストと云ったような時代……つまり・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
出典:青空文庫