・・・その乞食の人はどんなことがあっても駆けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ と矢声を懸けて、潮を射て駈けるがごとく、水の声が聞きなさるる。と見ると、竜宮の松火を灯したように、彼の身体がどんよりと光を放った。 白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せた時、水が穂に被るばかりに見えた。 ぴたぴたと板・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ その跫音より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚の骨がばさりと覗いて、其処に、手絡の影もない。 織次はわっと泣出した。 父は立ちながら背を擦って、わなわな震えた。 雨の音が颯と高い。「おお、冷え、本降、本降。」 と高調子で・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・下駄はさっきから砂地を駆ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足である。 何故かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上ろうとする、足が砂を離れて空にかかり、胸が前屈みになって、がっくり俯向いた目に・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。 と見向いた時、畦の嫁菜を褄にして、その掛稲の此・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・緑雨の車夫は恐らく主人を乗せて駈ける時間よりも待ってて眠る時間の方が長かったろう。緑雨は口先きばかりでなくて真実困っていたらしいが、こんな馬鹿げた虚飾を張るに骨を折っていた。緑雨と一緒に歩いた事も度々あったが、緑雨は何時でもリュウとした黒紋・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 夕焼けのした晩方に、海の上を、電光がし、ゴロゴロと雷が鳴って、ちょうど馬車の駆けるように、黒雲がいくのが見られます。それを見ると、この町の人々は、「赤い姫君を慕って、黒い皇子が追っていかれる。」と、いまでも、いっているのでありまし・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・そして、この広い野原も縦横に駈けるであろう。」といって、くまは、かごの外の自然に憧れるのでした。「ああ、自由に放たれていて、しかも、羽すら持ちながら、それができないとは、なんという情けないことだ……。」と、くまは、はがゆがりました。汽車・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・「僕は腹が痛いから、駆けることができない。」と、光治はいいました。「うそをつけ、腹なんか痛くないんだが、兵隊になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思え。」「僕は・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
出典:青空文庫