・・・すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。早速お前を父・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・私たちは泳ぎをやめると一しょに、三人ながらずぼりと水の中に潜ってしまいました。水の中に潜っても足は砂にはつかないのです。私たちは驚きました。慌てました。そして一生懸命にめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことが出来ました。その時私たち・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 浪の音には馴れた身も、鶏の音に驚きて、児と添臥の夢を破り、門引きあけて隈なき月に虫の音の集くにつけ、夫恋しき夜半の頃、寝衣に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・それを見つけた彼の母の、その驚き、そのうろたえ、悲しい声を絞って人を呼びながら引き上げたありさま、多くの姉妹らが泣き叫んで走り回ったさまが、まざまざと目に見るように思い出される。 三人が上がってきて、また一しきり、親子姉妹がいってかいな・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・うに悪かったとさとってそれからはもう心を堅くおきめになったので小吟は奥様を大変にうらんで或る夜、旦那が御番での留守を見はからってねて居らっしゃるまくらもとに立って奥様の御守刀で心臓を刺し通したので大変驚き「汝逃すものか」と長刀の鞘をはずして・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
一 露子は、貧しい家に生まれました。村の小学校へ上がったとき、オルガンの音を聞いて、世の中には、こんないい音のするものがあるかと驚きました。それ以前には、こんないい音を聞いたことがなかったのです。 露子は、生まれつき音楽が好・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ああ、良い気味だ……と、嗤ってやった。驚きもしなんだ。なに、驚くもんか。判っていたんだ。こう成るとは、ちゃんと見通していたのだ。 良いか。言ってやるぞ。……お前から手を引いた時、おれは既にお前の「今日ある」を予想していたのだ。だからこそ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・私はハッと驚きましたが知らぬ顔をして居ました。すると「お母さん。顔がこんなに腫れました。手も腫れました。眼が充分明けません。一寸鏡を貸して下さい」と言います。その時私は、鏡を見せるのはあまりに不愍と思いましたので、鏡は見ぬ方がよかろうと言い・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じよ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・光代は打ち驚きて振り返りしが、隠るることもならずほどよく挨拶すれば、いい景色ではありませぬか。あなた、湖水の方へ行ってごらんなされましたかと聞く。いえまだ、実は今宿を出ましたばかりで、と気を置けば言葉もすらりとは出でず、顔もおのずから差し俯・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫