・・・ その森の中からとんで来る弾丸は髪の毛一本ほどにま近く、兵士の身体をかすめて唸った。 六 パルチザンは、山伝いに、カーキ色の軍服を追跡していた。 彼等は空に向って、たまをぶっぱなしたあの一角から、逃げのび・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・奈良朝になると、髪の毛を穢い佐保川の髑髏に入れて、「まじもの」せる不逞の者などあった。これは咒詛調伏で、厭魅である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。 神おろし、神がかりの類は、こ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・あの光子さんなぞが黒いふさふさした髪の毛を振って、さも無邪気に、家のまわりを駆けまわっているのを見ると、袖子は自分でも、もう一度何も知らずに眠ってみたいと思った。 男と女の相違が、今は明らかに袖子に見えてきた。さものんきそうな兄さん達と・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。 女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・途中で帽子を落として来たおかあさんは、髪の毛で子どもの涙をぬぐってやりますと、子どもはうれしげにほおえみました。そのほおえみがまたあわれなおかあさんの心をなぐさめて、今までの苦しみをわすれて第五の門に着くほどの力が出てきました。ここまで来る・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・スバーの母は、大変な心遣いで娘に身なりを飾らせました。髪の毛をレースのように編んで畳み込み、体の彼方此方に飾りを下げ、スバーの自然の美しさを代なしにするに一生懸命になりました。 スバーの眼は、もう涙で一杯です。泣いて瞼が腫れると大変だと・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・けれども、いつも痩せて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。 父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、唖、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。 社のガラス戸を開けて戸外に出る。終日の労働で頭脳はすっかり労れて、なんだか脳天が痛いような気がする。西風に舞い上がる黄いろい塵埃、侘しい、侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それは、地震前には漆のように黒かった髪の毛が、急に胡麻塩になって、しかもその白髪であるべき部分は薄汚い茶褐色を帯びている事であった。そして、思いなしか、眼の光にも曇りが出来て、何となしに憔悴した表情がこの人の全外容に表われているのであった。・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・一度髪の毛がすっかり抜けた事があるそうだ。酒を飲み過ぎて血を吐いた事があるそうだ。それから身体が生れ代ったように丈夫になって、中音の音声に意気な錆が出来た。時々頭が痛むといっては顳へ即功紙を張っているものの今では滅多に風邪を引くこともない。・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫