一 深川八幡前の小奇麗な鳥屋の二階に、間鴨か何かをジワジワ言わせながら、水昆炉を真中に男女の差向い。男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・なんせ肚の黒い男ですよって、なにを言うか分れしません。けど、あんな男の言うこと信用せんといて下さい。何を言うても良え加減にきいといて下さい」「いや、誰のいうことも僕は信用しません」 全く、私は女の言うことも男の言うことも、てんで身を・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・大きな星一ツに小さいのが三ツ四ツきらきらとして、周囲には何か黒いものが矗々と立っている。これは即ち山査子の灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り…… と思うと、慄然として、頭髪が弥竪ったよ。しかし待てよ、畑で射られたのにしては、こ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・煤黒い猫が屋根を歩いていた。喬は足もとに闌れた秋草の鉢を見た。 女は博多から来たのだと言った。その京都言葉に変な訛りがあった。身嗜みが奇麗で、喬は女にそう言った。そんなことから、女の口はほぐれて、自分がまだ出てそうそうだのに、先月はお花・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 年のころは四十ばかり、胡麻白頭の色の黒い頬のこけた面長な男である。 汗じみて色の変わった縮布の洋服を着て脚絆の紺もあせ草鞋もぼろぼろしている。都からの落人でなければこんな風をしてはいない。すなわち上田豊吉である。 二十年ぶりの・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 軍服が、どす黒い血に染った。 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。 機関車は薪を焚いていた。 彼等は四百里ほど・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・系図を言えば鯛の中、というので、系図鯛を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿様が抱いていらっしゃるものです。イヤ、斯様に申しますと、えびす様の抱いていらっしゃるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言う人だと、また叱られますか知れませんが、・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ と云った。 箒。ハタキ。渋紙で作った塵取。タン壺。雑巾。 蓋付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶。湯呑茶碗一個。 黒い漆塗の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯の間から蝦蟇口を取り出した。その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。「へえ、末ちゃんにも月給。」 と、私は言って、茶の・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫