・・・ 隊長シュミット氏は一行中で最も偉大なる体躯の持ち主であって、こういう黒髪黒髯の人には珍しい碧眼に深海の色をたたえていた。学術部長のウィーゼ博士は物静かで真摯ないかにも北欧人らしい好紳士で流暢なドイツ語を話した。この人からいろいろ学術上・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・完全に裸体で豊満な肉体をもった黒髪の女が腕を組んだまま腰を振り振り舞台の上手から下手へ一直線に脇目もふらず通り抜けるというものすごい一景もあった。 要するにレビューというものはただ雑然とした印象系列の偶然な連続としか思われなかった。ワグ・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・われにはまた来歴ある一中節の『黒髪』がある。黄楊の小櫛という単語さえもがわれわれの情緒を動かすにどれだけ強い力があるか。其処へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・陽炎燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水の因果を受くる理なしと思えば。睫に宿る露の珠に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆くもあるかな。わが命もしかく脆きを・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。 幼い時から、あらゆる人生の惨苦と戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣まで売り尽して、愈々最後に売る・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 古金襴の袋刀は黒髪の枕上に小さく美くしい魂を守ってまたたく。 元禄踊りの絵屏風をさかしまに悲しく立て廻した中にしなよく友禅縮緬がふんわりと妹の身を被うて居る。「常日頃から着たい着たいってねえ云って居た友禅なのよ華ちゃん、今・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・燃える夕陽と迫る夕闇の池の上で、若い男の顔の半ばが、その胸によりすがっている若い女性の黒髪のかげにかくされていたというわけであったのだろうと思う。感傷と未熟さの朦朧体にくるまれて、その絵はおませな女の子の眼に、どうしてもわけの分らないゴリラ・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・ 古い錦絵、紙人形、赤いつまみの櫛の歯の黒髪、これだけの間に切ってもきれないつながりがある様に――又その間からしおらしい物語りが湧いて来はしまいかと思われた。 雨のささやきに酔った様にお敬ちゃんは、机につっぷしてかすかな息を吐いて夢・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・「いまさらに何とか云はむ黒髪の みだれ心はもとすゑもなし」 ―――――――――――――――― 下島は額の創が存外重くて、二三日立って死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
出典:青空文庫