・・・半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖だたみにし、遺書は側の下駄の鼻緒に括りつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことで・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・しかもその日和下駄は左の前鼻緒がゆるんでいた。自分は何だかこの鼻緒が切れると、子供の命も終りそうな気がした。しかしはき換えに帰るのはとうてい苛立たしさに堪えなかった。自分は足駄を出さなかった女中の愚を怒りながら、うっかり下駄を踏み返さないよ・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・藁草履はじっとり湿った上、鼻緒も好い加減緩んでいた。「良平! これ! 御飯を食べかけて、――」 母は驚いた声を出した。が、もう良平はその時には、先に立って裏庭を駈け抜けていた。裏庭の外には小路の向うに、木の芽の煙った雑木林があった。・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・下駄の鼻緒が切れる。その上俯向きに前へ倒れて、膝頭を摺剥くと云う騒ぎです。いや、もう少し起き上るのが遅かったら、砂煙を立てて走って来た、どこかの貨物自働車に、轢かれてしまった事でしょう。泥だらけになった新蔵は、ガソリンの煙を顔に吹きつけて、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと洒落れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は駈足で時流に追着く。「これを貰いますよ。」 店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。小褄を取った手に、黒繻子の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱が長く絡った、ぼっとりもの・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 七 小春の身を、背に庇って立った教授が、見ると、繻子の黒足袋の鼻緒ずれに破れた奴を、ばたばたと空に撥ねる、治兵衛坊主を真俯向けに、押伏せて、お光が赤蕪のような膝をはだけて、のしかかっているのである。「危い―・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 可いかい、それを文庫へ了って、さあ寝支度も出来た、行燈の灯を雪洞に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌った層ね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢なんかちらちちとしたろうよ。 長廊下を伝って便所へ行くも・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・少年はぼんやりとして見ていると、おじいさんは石につまずいて、げたの鼻緒を切ってしまいました。「ああ困ったことをした。」と、おじいさんはいって、跣足になって、鼻緒をたてようとしましたが、なにぶんにも目が悪いので、思うように鼻緒がたちません・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・そしてこのごろは、げたの鼻緒を立てたり、つめを切ったりするときだけにしか使われなかったけれど、年とったはさみは、若いころ、お嬢さんが人形の着物をつくるときに、美しい千代紙や、折り紙を切ったり、また、お母さんが、お仕事をなさるときに使われた、・・・ 小川未明 「古いはさみ」
出典:青空文庫