・・・煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくり拭った。「刺激がないからいけないのだと思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命に金をためて、十二三円たまったから、それを持ってカフェへ行き、もっともばからしく使って来ました。・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・頭は丸刈りにして、鬚も無いが、でも狭い額には深い皺が三本も、くっきり刻まれて在り、鼻翼の両側にも、皺が重くたるんで、黒い陰影を作っている。どうかすると、猿のように見える。もう少年でないのかも知れない。私の足もとに、どっかり腰をおろして、私の・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・きのう一日のことが、つぎつぎに思い出されて、それでも、なんだか、はじめから終りまで全部、夢のようで、どうしても、事実この世に起ったできごととは思われず、鼻翼の油を手のひらで拭いとりながら、玄関に出てみた。きのうの郵便屋さんが立っている。やっ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・指先を軽く相手の唇と鼻翼に触れていれば人の談話を了解する事が出来る。吾々の眼には奇蹟のような女である。匂や床の振動ですぐに人を識別する女である。 しかし私が書こうと思ったのはケラーの弁護ではなかった。ヴィエイがケラー自叙伝中の記述に対し・・・ 寺田寅彦 「鸚鵡のイズム」
・・・京都など、そのように不作法な風が吹かないしほこりは立たないし――高台寺あたりのしっとりした木下路を想うと、すがすがしさが鼻翼をうつようだ。とかく白濁りの空の下に、白っぽくよごれた桜が咲いている光景、爛漫としているだけ憂鬱の度が強い。 け・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
・・・強い香が鼻翼を擽った。春らしい気持の香であった。「私もこの花は好きよ」「いいでしょう?」 千鶴子は前垂れをかけたまま亢奮して飛び出して来た、そのつづきの調子で、「一寸この人字がうまいでしょう?」など、断れ断れに喋った。・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
出典:青空文庫